■里井さんが最も愛した男 さようなら!
 互いに惹かれる高貴な家系
小谷 泰造  インターグループ取締役社長

 「正月4日茨木でゴルフせえへんか?」 「2日に北海道から帰って来るからちょうどいいです」…よく誘っていたが、この日は特に嬉しそうな返事だった。
 当日、飛ぶわ飛ぶわ! 西アウト9番などバンカーの端まで。「折目君どうなってんねん?」…鈍感な小生は気づかなかったが、同伴の前田君は「折目さん身体の調子如何?」と聞いていた。今にして思えば、腰が痛むので徹底的に力を抜いていたようだ。

 特に淋しいのは、毎週電話で話し、人生の同じ時間を共に過ごし、共感する喜びがなくなったことだ。ヤンチャな兄貴をいつも穏やかに受け入れてくれて本当にいい男だった。
 創業時、里井達三良さんに紹介するや俄然気に入られ、早速名随筆集の出版を依頼された。よく「経営とはな」と色々アドバイスしたが、どうしても経営者の拭い切れない卑しさが出るのが恥ずかしくなって止めた。そういう事を感じさせる潔さを持っていた。

 北海道の大地と、詩人のお母さんにはぐくまれた折目君だから、やはり詩好きで重文の吉村家の母を持つ関西の素封家一族の家系の里井さんと惹かれ合うのだと思っていたが、死後、里井家に優るとも劣らぬ素晴らしい家系の出身だということを知り、ただただ折目君らしいなと感心した。

 三好、長曾我部の戦国時代、郷士として生き抜き、吉野川中流の商都、貞光町に連綿と続く忌部氏の庶流、織比女之裔で明暦時代(1655〜)に折目家を称した。3代目徳兵衛延宝(1673〜)に至って阿波第一の豪商となり「吉野川の水が尽きるとも銀主奉行折目家の金は尽きぬ」などと言われ、6代目武之丞に至っては徳望世に知られ、道路橋梁を設け、貧しきを恵み、凶荒飢餓を救った。以後連綿と大庄屋を続けた。
 明治9(1876)年、ルネッサンス式の洋館を建て昭和36年に拡張の為壊すまで「折目家の普請」と有名とのこと。(徳島県・貞光町史「折目家関係資料」より抜粋)

 道理で、折目君の人格は連綿となくいい家系のブレンドを繰返され始めて生まれたものだと感心した。もう少し生きて、先祖が阿波に尽くしたように大阪に尽くして欲しかった。

 折目君が尽力したエポックメーキングな2つのイベントがある。81年7月21日、ホテルプラザで里井さんの随筆『夕映えの道』の出版記念会が開かれた。当時ジャンケンで決めたら、と東商に冷やかされた第二の大商騒動の真っ只中だった。
 ある著名なジャーナリストから小生に電話があり、どちらかと言えば一方の側に属していた折目君の社の出版記念で公平・中立な里井さんに色をつけるのかとのお叱りをうけた。

 小生は「里井さんは若者が好きなだけで何の意図もございません。ご理解下さい」と必死でお願いし、見事両派の方々が大勢お集まり戴き大盛況だった。司馬遼太郎、梅棹忠夫、小松左京、神風親方、鈴木剛各氏を始めとする財界人、文化人、学者…これほどの会はあれ以後ないだろう。
 その結果、千里文化財団の季刊随筆集『千里眼』が生まれた。今にして思えばなつかしい大阪の熱気であり、折目君の離陸が正に始まった感がした。

 また、戦後大阪の復興は糸偏で始まり、寒さを凌ぐ実用品としての衣服から「ファッション」へと変貌しつつあった。さらに御堂筋の繁栄なくして大阪の繁栄はないとの熱き思いが能村龍太郎、萩尾千里、折目允亮の3氏から湧き出るように出来たイベントが大阪コレクションだった。

 昭和57年、南御堂の境内に太陽工業から大型テントの提供を受け、コシノ3姉妹コレクションを行い大成功したのが、大コレを生むきっかけとなった。この大成功を見て南御堂主催で太鼓の林英哲、ピアノの山下洋輔、イラストの黒田征太郎によるライブも行われ、御堂筋の活性化に一役買った。
 現在まで16年継続する大阪コレクションからは、新人デザイナーが続々と生まれ、韓国やヨーロッパの若手にとっても一つの登竜門となっている。

 欧米では、時間をかけてイベントを成功して初めて町の繁栄が始まるのが常識だ。正に「継続は力」。ささやかでもいいから是非大阪コレクションだけは続けてほしい。
 これは折目君一個人の問題でなく大阪人の願いなのだ。
合掌
 
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