第三十八回 食品の安全度に関して

マスコミ情報に過剰反応


 1年前の狂牛病騒ぎに端を発した、食料の供給体制に対する消費者の不安は、その後次々に暴露される食品業界の不祥事でますます高まる一方である。
 不安を払拭するために、野菜の種まきから収穫までの全行程をインターネットで公開し始めた農業法人も出てきたとのことだ。

 有機農法を売り物にする商品なども、その実態はかなりあやしげなものがあるようで、神経質な消費者は、その具体的な生産過程をも知らなければ安心できない、との気持ちを強くしているようだ。
 食品内容表示のまやかしもこれだけ大きく取り上げられると、これまで何の疑いもなく食べてきた食品の味は半減する。味は半減するとは言え、安全な飲み水が得られなかったり、生存に必要な最小限の食料にも事欠き、毎年1500万人もの人間が飢え死にしている世界の現実に思いを馳せると、あり余る食料に恵まれている日本人に、何の不満があるのかと言いたくなる。

 しかも平均寿命が女性85歳、男性78歳と世界の長寿競争のトップランナーにもなっているのだから、結果良ければ全て良しとして、あまり神経質にならずに生活するのがいいのではないか。
 食の安全などどうでもいいと言っているわけではない。適当なところで妥協しなければ、経済的にも精神的にも負担できるコストの限界を超えてしまって、食べることに関しては心配ないが、他の生き甲斐活動を行う余裕が無くなってしまうということだ。

 医療にしたって同じ事だ。最高の治療技術・安全な治療、快適な療養環境を際限なく追求するのは建前としては悪くはないが、必ず経済コストの限界にぶち当たる。
(イラスト:Yurie Okada)

 どのへんで妥協するか、リスクに対する現実的なバランス感覚が欠かせない。もう少し突き詰めた言い方をさせてもらえば、所詮この世に絶対安全などということはあり得ないのだ。適当なところで手を打たねば、安全強迫観念の虜になりかねない。

 医食同源の言葉が示すように、何をどう食べるかは確かに心身の健康に重大な影響を及ぼす。ファーストフードの便利さ、手軽さにどっぷり浸かった不健康な生活をしながら、時々のマスコミに登場する危険情報に過剰に反応するのは如何にもおかしい。
 旬のものを自ら料理し、自然のものの味を感謝しつつ楽しむという、スローフード中心の健康的なライフスタイルへ回帰する努力でもしているのならば、残留農薬や有害な食品添加物に神経質になることも理解できないではないが…。

    【関西ジャーナル
2002年9月25日号掲載

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