第九回 インフォームド・コンセント
 インフォームド・コンセントなどという、
英語化すると言われる日本社会を象徴するような
聞き慣れない単語が,新聞の投書欄にまで
登場する今日この頃である。


 読売新聞(平成11年12月4日)に,茨城県の62歳になる主婦の方からこんな内容の投書が寄せられていた。

 皆が口をそろえる「いい先生」のこと。10年ほど前から骨折や高血圧などで、隣の市の病院にかかっている。そこで5年ほど前から診療を始めた若い先生は,温厚で親切で、非のうちどころのない人柄だ。昨夏息子が手の指を骨折し、この先生に診ていただいた。後日私が受診した際骨折のことを尋ねると、実に懇切丁寧に説明して下さった。また、先生が難しいお名前なのでお尋ねすると、それはそれは優しく教えてくれた。このように、一つ一つのことを嫌な顔もせず答えて下さることに、私はその都度感激し、あぁ、これが当節よく言われる「インフォームド・コンセント」なのだと感慨を覚えるのだった…というものだ。

 けちを付けるわけではないが、かなり外れている。「インフォームド・コンセント」というのは、単に親切に説明をしてくれた、で済むことではなく、治療法選択の責任の一端が患者自身にあることを確認させる言葉だ。「説明と同意」と日本語に訳されているが、病気の治療法とその成功率・危険度について医者がデータに基づいて説明し、その結果どの治療法をとるか患者さんに決めてもらうというものだ。もともと医療訴訟の多いアメリカで造られた言葉で、期待通りの結果が得られず訴訟になった場合、「インフォームド・コンセント」がなされていれば、医師の責任が多少減じられるのではないかという思惑がある。
 これは医療行為の選択に関して最終決断を下す責任者の一人が、患者自身であることの確認を求めているのであり、患者自身のしっかりした判断力を前提としている。

 しかしながら,全ての患者に一定レベル以上の判断力を要求するのは無理というものであり、この手続きを一般的な医療手順にしてしまうと、かなり混乱するおそれがある。学校教育における生徒各自の成績のばらつきを考えてみるといい。
 全ての生徒に同じように教育を施しても、結果はピンからキリまでばらつくではないか。インフォームド・コンセントなどという輸入概念を、マスコミは医療の前提のようにはやし立てるが、信頼感の欠如から始まったとも言えるようなシステムに耐えられる人は、ほんの一部の知識人だけではないかと思う。少なくとも小生の実地の感覚では、大多数の患者は「お任せします」タイプだ。患者すべてに同じレベルの判断力を要求することができないとすれば、医者が良かれと思う治療を施さざるを得ないし、それが現実だ。
 但し、そこで絶対に欠かすことの出来ないものがある。患者と医師の信頼関係だ。家族の健康に関しては普段から何でも気軽に相談し、お互い気心も知り合っているかかりつけ医を持つことが、インフォームド・コンセントなどというしかつめらしい言葉に関わり合わずに済む秘訣だ…などと書いても、田舎は平和だねと言われるのが落ちかな…。

(イラスト:Yurie Okada)

 しかし確かに一般論としては、医療技術を含め様々な科学技術の成果が人間の生活に直接間接に重大な影響を及ぼすようになっている。一つ一つのことに対して自分はどうするのか、何を選択して何を退けるのか、個としての判断が重要になってくる。しっかりした個の判断が出来るようになって、初めてインフォームド・コンセントが生かされてくるのだ。情報は今や多くの人々に公開されている。よく勉強して判断力を磨いて欲しいと願うものだ。       

    【関西ジャーナル
2000年1月1日号掲載
  

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