第七回 交通教育一考
安全は自分の頭で考える
信号に命を預けない安全教育で自主性、冒険心を育成

 やや時期はずれの話になるが、今春も新入学児童に対する交通ルールの指導が行われたと、テレビニュースが報じていた。赤信号と青信号の指示するところに従って道路を横断する訓練である。
 児童達は脇目も振らず信号を見つめながら練習コースを歩いている。交通安全教育の基本は信号を守ることだと信じて疑わない大人達が、信号信号と叫んでいる。安全教育とはそんなものだろうか?

 何年か前、北海道函館市でこんな事故が起こった。スピード違反車を追跡中のパトカーが交差点で、信号に従って横断していた児童をはねて殺してしまったのだ。児童は教えられた通りに、青信号に従って行動していたが、おそらく周囲の状況には気を配ってはいなかったのだろう。
 両親の悲しみと納得できない怒りとは察するに余りあるが、これがもし赤信号を無視して事故に遭ったのであれば、どうであろうか。ルールに従わずに事故に遭ったのだから、自分の子供が悪かったと諦め、当初の悲しみの大きさは同じとしても、いずれは納得して癒されてゆくだろう。
 しかし,指導された通りに青信号に従って横断していたのに、指導の当事者たる警察に轢き殺されたのでは、思い出すたびに怒り心頭で生涯癒されることはないだろうと思う。
 またこんな事故も今年起こっている。82歳のお年寄りが青信号で横断中、右折車にはねられ死亡した。お年寄りにも信号信号の指導だけではかえって危険なのだ。

 整形外科医としての小生の経験でも、交差点での人身事故は殆ど信号通りに行動していた歩行者が被害者である。
 小生の住んでいる所にも、田舎街ながら多くの交通信号が設置されている。信号は本来混雑する交通を整理するためのものであって、人っ子一人通らず車の通行も少なくなる夜間には必要ないものである。融通のきかない機械の悲しさで、必要のない夜間にも作動しているだけのことである。
(イラスト:Yurie Okada)

 ところが、この夜間の信号を律義に守っている人がいる。車も見えない交差点でじっと信号が青になるのを待っている人を見ると、田舎街だけに余計不気味な感情に襲われる。自分の頭で考えて安全と判断したら、信号にとらわれずに行動するのが自立した人間ではないか。

 信号なんぞに命を預けてはいけませんよ、という教育こそ真の安全教育だ。自分の安全に関わることは自分で判断できるような人間を育てることが大切だ。そのためには、ある程度は危険な体験を積ませる必要もあるのだ。
 信号さえ守っていれば安全だという錯覚を与える教育は、マニュアルがなければ行動できない指示待ち人間ばかりを養成してきた教育と同根であるように思える。「最近の大学生は全く自主性、冒険心がない」と大阪のある大学の教授が嘆いていたが、むべなるかなである。


    【関西ジャーナル
1999年10月25日号掲載
  

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