第三回 先端医療−光と影− 臓器移植の是非を考える
医療費削減・臓器不足で、金持ちの医療になる恐れ

 最近の医学の進歩は急速で、つい20〜30年前までは処置なしだった病人も助かるような時代になってしまった。進歩を象徴する技術の一つが臓器移植手術である。


(イラスト:Yurie Okada)



 腎臓不全に陥り、1日置きに人工透析を受けねば生きられない人にとって、腎臓移植によってその苦痛から逃れることが出来るならばそれは夢の治療法だし、また回復不能な肝硬変に陥った人に対しては、肝臓移植しか現在のところ延命の方法はない。拡張型心筋症も末期には心臓移植しか有効な治療法が無い。脳死を人の死と定義する法律も成立し、既に3人の脳死者から心臓、肝臓、腎臓などが摘出され移植手術に利用された。しかしこれらの動きを手放しで喜んでいていいのだろうか?

 医学技術に限らず科学技術一般に言えることは、実現可能なことがすべて実現できるとは限らないし、また実現すべきでないこともある。それは全ての技術の利用の裏に、社会経済的なコスト負担の問題があるし、人間倫理のしばりがあるからである。
 少子化、高齢化が国民の財政負担を重くしつつあるとき、そして老人のささやかな医療費までケチろうとしているこの国に、臓器移植を一般的医療として支えてゆくだけの余力があるのだろうか。極々普通の病気の治療費にまで自己負担原理を導入して医療費の削減を図ろうとしているこの国に、莫大な人的財政的コストを臓器移植に振り向ける余裕があるのだろうか。つまるところ、医療費負担能力のある金持ちのための医療になってしまう公算が大である。

 コストの問題の他にもう一つ難題がある。臓器の不足の問題である。希望者全てに供給できるだけの臓器をどのようにして調達するのだろうか。アメリカのような銃社会で脳死者が大勢出るようなところでも、臓器不足は深刻な問題になっている。まして日本では国内では需要を満たせず、輸入でもしてこなければ間に合わないだろう。

 先日の新聞報道によると、エジプトの民間の孤児院が、集めた子供達32人を臓器売買目的で病院に送り込み、臓器を摘出させたうえ25人の死者を出していた疑いが強まり、検察が捜査を開始したとのこと。孤児院は臓器1個あたり100万円から340万円を代金として受け取っていたそうだ。またインドでは腎臓1つを売れば一生暮らせるだけの金がもらえるので、臓器摘出病院の前に売却希望の人がいつも待機しているそうだ。

 悲しいかな、これが人間社会の現実である。国民全員がドナー・カードを携帯して命のリレーに参加を、などと綺麗ごとばかりを並べている場合ではないのだ。「先進国と途上国、金持ちと貧しい人が否応なく敵対しなければならなくなる医療が臓器移植だ」と、臓器移植にはとんと関係しない田舎医者は考える。

【関西ジャーナル         
   1999年6月25日号掲載】


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