五十一回 「出会い-3」

出会いは「一期一会」、感謝の念と真剣さを
―能村龍太郎氏との出会い(下)―


 能村龍太郎太陽工業会長とご一緒した1982年11月の『御堂筋フェア82 コシノ3姉妹ジョイントコレクション』は、20年経った今も記憶に鮮烈である。推進チームに参加したすべての人たちが、心底純粋なボランティア精神を貫き、"御堂筋の活性化"に心を一つにした。

 私自身、創業2年目余、なお先行不透明な弱小新聞社の仕事を犠牲にしつつ、このボランティアに没頭した。「道楽もいい加減にしたら…」の声を承知で東奔西走したのだが、結果的に、当社が多少とも社会の信頼をいただいているとすれば、それはやはり、この"道楽"のお蔭である。

 この『御堂筋フェア82』は、その後2つの事業を産み出した。1つはその数ヵ月後に発足した『能村塾』であり、今ひとつは5年後にスタートした『大阪コレクション』である。
 このフェアの推進に加わった仲間には、誰一人として己の打算で参加した者はいなかった。「いい歳をした大人が」と言われそうだが、自信を持って断言できるのは、メンバーのすべてが、「大阪のため、御堂筋の活性化のため」に良い汗を流したことである。

 そしてそのチームを引っ張り、成功に導いてくれたのが能村さんだった。フェアの終了後、誰言うともなしに能村さんに感謝し、慰労する集いが、大阪・ミナミのある大衆酒場で開かれた。いわゆる"ご苦労さん会"だが、純粋な気持ちで集い、縁を結んだ仲間たちだけに、「これをもってメンバーを解散する」ことに多少寂しさが残った。

 そしてこれもまた、誰言うとなく「この会を、能村さんから経営や人生を学ぶ若手の勉強会にしよう」の提案がなされ、『能村塾』の発足につながる。1983年1月のことである。
 以後この塾は2月に1回会合し、次々回で120回目を迎える。その間私が事務局を務めさせていただいているが、その場は魅力ある方々との出会いの場であり、私は求めずして「一流の人脈」という素晴らしい宝を手にすることになる。

 今1つは、今や関西の唯一と言っていいファッションクリエーターの発表の場となっている『大阪コレクション』である。『御堂筋フェア82』の後、事業推進の中心になった能村さんとコシノヒロコさん、そして強力なサポーターだった朝日新聞の萩尾千里編集委員(現関西経済同友会常任幹事事務局長)と私の4人は、能村さんのお誘いで定期的にゴルフを楽しむ仲間になっていた。そしてその何回目かのプレー後、コシノさんから『大阪コレクション』構想が提案される。
 「繊維の町・大阪の、このところの繊維産業の衰退は嘆かわしい。それは素材に偏重しデザインを軽視してきたからだ。一方、大阪は官民あげて"国際都市・おおさか"づくりを目指しているが、クリエーターが好んで住まない町なんて国際都市とは言えない。しかしこの大阪にも、若い有望なファッションクリエーターはたくさんいる。その芽を探し、伸ばす手助けをする場が必要だ。あの"御堂筋フェア82"に結集した財界のパワーを再び発揮してもらえないか」

 それに賛同したわれわれ3人は、翌日から大阪の官民のキーマンを訪ね、およそ1年の研究期間を費やして発足したのが、1987年にスタートした『大阪コレクション』である。

 能村さんとの出会いが、こうした事業を生み、その都度私は事務方としてお手伝いする栄誉を得る。そしてそれ以外にも、次々に繰り出される能村さんの大阪活性化提案のたびに引っぱり出され、汗をかかされるのが、それは私にとって光栄であると同時に最高の勉強の場になっていく。もちろん、身近で能村さんの生き方や経営観を学ぶことも貴重な体験だったが、同時に能村さんが長年にわたって築き上げてきた「一流の人脈」の幾つかを、難なく自分のものにしえたのだからこれ以上の幸いはない。

 出会いとはまさしく奇しきものである。2度までも大チョンボをしでかしながら、その後の展開を用意してくれる。しかし、もし私が最初の失敗で挫けたり、「どうせピンチヒッターだから」と投げやりになっていたらその後の展開はなかったろう。

 人生まさに「一期一会」である。一つひとつの出会いを、与えられた出会いと意識し、真剣に立ち向かう、その大事さを文字通り体感させられた私であった。


=この項おわり=

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