五十回 「出会い-2」

縁とは奇しきもの 3度(たび)のチャンス
能村龍太郎氏との出会い(中)




1982年11月『御堂筋フェア82』
コシノ3姉妹ファッションショー
 太陽工業の能村龍太郎会長との出会いは、1度ならず2度にわたって失敗だった。最初はやむを得ない事情があったとはいえ勉強不足、そして2度目の失敗は気負いすぎ。「2度と失敗はしない」という自分の立場のみ考え、取材される相手の立場を考えていなかったのだ。記者の質問に、ああも答えよう、こうも話そうと考えていたであろう人の機先を制し、その答えを事前に記者が喋ってしまえば相手が答えに窮するのは当然である。その立場を弁えない私の未熟さであった。だが縁とは奇しきもの、能村さんとの交流がそれで途絶えることはなかったのだ。

 2度の失敗にも懲りず、当時の"関西財界の若手経済人・能村龍太郎さん"への関心は私の中で消えることはなかった。関西復権にあれだけの情熱を傾け、発言する人を、関西財界はもっともっと活かすべきだ、と心底思っていた。

 『関西ジャーナル』を創刊した昭和55年秋、たまたま懇意にしていた大阪商工会議所の井土武久専務理事(当時)と"大商議員の若返り"について話をしていた。当時、大商議員の高齢化が顕著になっていた時期で、「このままだと大商は文字通り老人クラブになってしまう」というのが私の主張だった。

 すると井土さんは即座に「君が、この人はと思う若手経済人を10人ほどリストアップしてくれ。それをもとに若返り戦略を練ろう。協力して欲しい」とおっしゃる。数日して私は指示通り10名の若手経済人の名を記したリストを届けたのだが、その先頭に載せていたのは当時58歳の能村龍太郎太陽工業会長だった。

 井土専務理事も本気だった。「このリスト順に、来年の議員選挙出馬を働きかけよう。まずは能村さんからだ。君も一肌脱げ」。

 "縁とは奇しきもの"と再び記すが、こうして井土さんと当時の佐伯勇大商会頭の参謀長だった上山善紀副社長(現相談役)の意を受けた私は、能村さんを大商活動に引っぱり出す悪巧みに荷担することになる。

 こうして2度の失敗を帳消しにするように能村さんとお付き合いが始まるのだが、ただそんな政治的縁だけなら、多分、その後の展開はなかっただろう。

 昭和56年11月末、晴れて大商議員になられた能村さんから食事のお誘いを受けた。12月24日、クリスマス・イヴの夜であった。その日の会話のほとんどは忘れてしまったが、ただ1つだけ、「大阪のメインストリート"御堂筋"を何とかして活性化させよう」ということで意気投合したことだけは、今もはっきりと記憶にある。
 私について言えば、関西ジャーナル創刊時から「蘇れ!御堂筋」キャンペーンを展開しており、後々、大阪21世紀協会の「楽しく歩こう御堂筋委員会」の委員長を務め、今年(2002年)20周年を迎えた大阪の名物イベント『御堂筋パレード』の責任者(監修者)を第1回目から続けてきた能村さんである、このテーマで意気投合するのは当然だった。

 思い立ったら直ぐ実行に移すのが創業経営者に共通する行動パターンだが、能村さんのそれも、寸分違うことがなかった。

 食事を終え、2次会のあるミューッジック・サロンに移動した頃には、2人の間に1つの構想が出来上がっていた。「御堂筋を楽しいイベントの舞台にする。その手始めに南御堂(東本願寺難波別院)の境内を借りてファッションショーをやろう」というものだ。

 いい気なものである。2人とも、関係者の了解も取らず、もう半分出来た気になっていた。そして年明けとともに、南御堂さん、コシノヒロコさん、佐治敬三サントリー社長などを次々に訪れ、構想実現への行脚を始めるのだが、うまくいく時とはこういうものなのだろう。ひとりとしてそれに異議を唱える人はなく、構想実現に向け事態は急スピードで走り出したのだ。

 こうして実現したのが昭和57年11月の『御堂筋フェア82』だった。南御堂境内に太陽工業提供の大型テントを張って特設会場をつくり、コシノヒロコ・ジュンコ・ミチコ3姉妹のジョイント・ファッションショーを催したのだ。「御堂筋・南御堂・ファッションショー」などの珍しさもあって、このイベントは大成功を博した。

 そして、不遜ながら私は、その時能村さんに同志的な気持の通いを感じ取ったのだった。

=つづく=

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