四十九回 「出会い-1」

与えられる機会を活かすのは自分
能村龍太郎氏との出会い(上)


 記者稼業に入ってから36年余、到底数えられない出会いを体験してきた。残念ながらすっかり忘れてしまった出会いもあれば、私の人生に非常に大きな影響を及ぼしてくれた出会いもある。この欄でご紹介させていただいた多くの出会い、そして人々は、公私ともに、文字通り私の人生のエポックを記していただいた方ばかりである。"出会い"とその妙味について触れてみた。

 最初の出会いを演出するのは、決してその人の力によるものではない、と私は考えている。やや宗教的になるが、何か大きな力に誘われて、その人にある出会いが訪れる。つまり「与えられるチャンス」である。そしてその出会いをどう活かすか、そこからその人の努力が試されるし、出会いのその後の展開、発展も決まってくる。その意味で、出会いのチャンスには積極的に、しかも謙虚に対面していくというのが、私自身の出会いの基本である。

 日頃、公私ともに教えをいただき、私にとっては師のお一人である太陽工業会長、能村龍太郎さんとの出会いも印象深いものの一つである。
 JR新大阪駅近くにある太陽工業に、最初に能村龍太郎社長(当時)をお訪ねしたのは全くの偶然だった。昭和50年代の初め、私がまだ、ある経済専門紙で記者活動をしていた30歳代の前半だった。

 ある朝、いつものように出社すると、珍しく私より早く出社していた上司に呼ばれる。その日の10時に能村さんを取材する予定だった同僚記者が「チチ、キトク」の電報で朝一番に郷里に帰った。お前が代わりに取材に伺うように、との指示である。

 初めての取材の場合は、当然事前に勉強し、万全の態勢で伺うのだが、この日に限っては全くその余裕はなかった。すぐ飛び出して、何とか約束の時間に間に合うタイミングだったからだ。ただ私には、日本万国博覧会の知識だけは十分あり、同社がその会場建設で大活躍をしたことも知っていた。何とか、その質問を中心に1時間の取材を乗り切ろうというのが、道々の私の考えだった。

 だが、実際には思惑通りには運ばなかった。30分もすれば、質問のストックは使い果たし、後はしどろもどろ、ただ、時間の過ぎゆくのを待つのみだった。本当に冷や汗が流れていたと思う。真面目な私は、つい一言、自分がピンチヒッターである事情を述べ、充分に事前勉強をしてこなかった非礼を詫びたのだ。
 当時の能村さんは50歳台前半、厳しい経営者であった。一気に厳しい顔になり、「事情はどうであれ、私は忙しい中、あなたの新聞社に1時間をさしあげている。それに対して非常に失礼ではないか」というお叱りである。ごもっともで、私は平身低頭、同社を辞すことになる。

 2度目の出会いは、私が『関西ジャーナル』を創刊した昭和55年の秋であった。関西の若手経営者の一人として脚光を浴びていた能村さんをどうしても取材したかったし、数年前のあの屈辱も脳裏に刻み込まれている。雪辱戦の意識で充分に事前取材し、意気揚々と乗り込んだのだ。

 開口一番、私は「能村さんの発言が出ている新聞雑誌をほとんど読んだ。それで能村さんの関西復権にかける意気込みも知ったし、具体的提案も10項目にまとめてきた」と、胸を張るようにまくし立てた。

 ところが、である、次に返ってきた能村さんの言葉に、またまた私はショックを受けることになるのだ。
 「それだけ調べるのは大変でしたね。だけど、それだけ調べてもらえると、それ以上話することはもうありません。私も忙しいので…」
約束の時間を半分も残して、能村さんは席を立ってしまったのだ。

 再び大失敗である。最初の出会いは勉強不足が原因だった。そして今度は調べすぎ、と言うより、調べたことの使い方を間違えたのだ。「こんな仲良うなったのに、そんなことおましたかいなぁ」と笑う最近の能村さんだが、「ホンマに、おましてん」。その溝がどう埋まるのか、始末記は次号で。  


=つづく=

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