四十八回 「師と弟子-3」

「人生ニコニコ顔で命がけ」を実践
− 豊田良平氏から学んだこと(下)−

 浄土真宗の開祖、親鸞聖人は「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずそうろう」という言葉を残している。恐らく豊田さんにも、我々に対して「師」の意識はなく、同じ人間学を学び、実践する"同行の士"と位置付けておられたと思われる。しかしその葬儀に参列し、若い人たちの落胆を目にしたとき、「良いお弟子さんたちに恵まれておられたのだな」と実感した。

 豊田さんとの最初の出会いについては前々回に触れた。少なくとも私にとっては、緊張感いっぱい、真剣勝負を挑んだ短くて、しかも長い数刻であり、物事に必死で、気合いを込めて向かうことの素晴らしさを学ぶ。そして以来20数年、その時々に豊田さんから発せられた一言一言が私の支えになり、生きる勇気の源泉になっていった。
 出会いから1年少々で、14年間勤めた新聞社を辞し、独立、「関西ジャーナル社」を興す。そのご挨拶に伺ったが、瞬間、表情には暗いものが走った。期待した若者の腰の軽さを憂う表情であった。しかし、その新聞社で14年間がんばり、独立の夢を語り出してから、豊田さんのお顔には安堵感が戻り、そして一言餞けの言葉を贈られる。

 「そういうことなら、がんばりなさい。だが、新しい新聞を創る以上、日本一の新聞を創りなさい」

 実はあまりにも超現実的な話であり、その時は「そんなこと出来るはずがないが、しかしその気持だけは持ち続けよう」と聞き流した。それはそうだろう。5大紙と各地方紙が全国を席巻する新聞界で、無一文からスタートする自分に、夢にしても遠すぎる」と考えるのが常識である。
 しかし商業主義から脱却できず、ジャーナリズムの王道からかけ離れるマスコミ界の現状を見るに付け、豊田さんのおっしゃる意味が実感として、理解できるようになってきた。

 そして創刊18年目を迎える年の新年挨拶で、私は初めて「日本一」の表現を文中に使った。
 「ジャーナリズム本来の使命である"社会の木鐸"精神の失われつつあるマスコミ界の中で、その心を継承することで(関西ジャーナルが)日本一の新聞になることは不可能ではありません。そしてその基盤を固めるのが今年(1998)であろうかと存じます」
 18年目にして、初めて「日本一」の表現を外部に発する度胸と勇気が私の中に芽生えたのだ。
 創業して5年目くらいだったろうか。豊田さんから「折目君、楽しんで仕事が出来るようになったかね」の言葉をもらった。即座に返す言葉が浮かばず、「感謝しながら仕事に励んでいますが、楽しんでまでは」と答えるのがやっとだった。と言うより質問の真意が理解できなかったのだ。ただ、私自身の想像をはるかに超える励ましや支援に対し、心から感謝しており、その気持を言葉に載せたのだ。

 それを大きな喜びと感じていたが、豊田さんのおっしゃる「楽しみながら」の意味が、もう少し先に行った心境であることを理解できたのは、さらにそれから数年経ってからである。

 『人生はにこにこ顔で命がけ』の著者である豊田さんは常々「心に喜神を抱きなさい、人生に大事なのは喜神と胆識です」とおっしゃっていた。
 「この人生を生かされて生きている。これを喜ぶことが大事です。人生は、喜びながらニコニコとして生きていかねばならないと思います」「悲壮感からの"命がけ"では駄目です。"ニコニコ顔の命がけ"であったら、人生楽しいじゃないですか」「喜神を持っていると、どんな苦労があっても耐えられるし、癪にさわっても怒らない。喜びながら艱難辛苦に立ち向かい、喜びながら苦労することが出来る」

 感謝の気持ち(喜神)があって初めて喜びの気持が湧き、喜びの心が定着して、楽しみの心境に達する、というのが豊田さんの教えである。今、ようやく「楽しんで仕事が出来るようになったかね」の真の意味を体で受け止められるようになった気がする。
 ここ数年は、励ましや激励の言葉が多かった。「そんな身ではありません」と混ぜっ返すと、「僕は、お世辞や茶化しは言わない」とその都度お叱りをいただいた。

 だが「人を生かすということは、その長所をほめること。教育とはほめることです」をも持論とする豊田さんであった。

=この項おわり=

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