四十七回 「師と弟子-2」

「死して朽ちない」人生を求める
− 豊田良平氏から学んだこと(中)−


 「出処進退」のあり方がその人の人生を大きく変えてしまうことがある。また「引き際の美学」とも言われ、とりわけ"功なり名を遂げた"成功者の引き際はむつかしい。それが成し得てはじめて「死して朽ちず」の領域に入っていくのだろう。そして、その「引き際」と、「死して朽ちない」人生を私は豊田良平師に学んだ。


 「少くして学べば壮にして為すあり。壮にして学べば老いて衰へず。老いて学べば死して朽ちず」(『言志晩録』)

 江戸後期の儒者、佐藤一斎先生の有名な「三学」の教えである。生意気なことを言わせていただければ、人生におけるすべての学問は究極、「死して朽ちず」のためにあると言っても過言でない。おそらく豊田さんの82年に及ぶ学問人生もここにあったのではないだろうか。

 18歳で安岡正篤師にたどり着いた豊田さんは、以後、ひたすら実践的人間学を追い求めた。第2次大戦で中国大陸を転戦した延べ6000kmの長い行軍にも、安岡師の著した『続経世瑣言』が帯同した。この一事が象徴するように、豊田さんの学問はけっして書斎の学問ではなかった。学んだ学問を実社会の中で咀嚼し重ねて学ぶ、それが豊田さんの学問への姿勢だった。

 ある時、豊田さんに些(いささ)かいやらしい質問をしたことがある。

 「生き馬の目をもくり抜くと言われた大阪の北浜。丁々発止の売買合戦が展開されるその世界で、学んだ人間学がどう活かされたのでしょう。例えば"義を大事にする""信を守る"というようなことに過ぎて、失敗したことはなかったですか」と。すると次の答が返ってきた。

 「一度もないね。まず信用。それがあればお客さんに信頼される。信頼されると、言うべきことは何でも言える人間関係ができる。さらにものの流れには必ず"機"というものがある。それを察知する力を身につける。そうすればお客さんに迷惑かけることなどけっしてない。株式は博打ではないからね」

 また「胆識をもってすれば何も怖いものはない。どんなに社会的地位の高い人にだって、精神的には常に対等な気持で接することができる。誰に会っても怖れの気持がなくなる」、とも常々言われていた。
 そんなことなどもあったのだろう。北浜の地場証券最大手の大阪屋證券(現コスモ証券)にあって早くから頭角を現し、旧制中学卒の学歴で、30代で取締役に抜擢され、当時の生え抜き組みの最高ポストである副社長にまで上り詰める。そして副社長一期、常任監査役を2期務めた後、多くの天下り先があったであろうが、それは受けず、関西師友協会副会長として、専ら青年世代を中心にした人間教育の普及・実践に努められるのである。

 「肩書きがなくなり、一人の豊田になってから、また新しい人生が始まった。定年後は、何か社会に対して萎縮した思いになるということを聞くが、私は逆だ。今の方がずっと胸を張って生きている」と笑顔で話されたこともあった。
 確かに現役時代の豊田さんには、若いわれわれを威圧するような厳しさと怖さがあった。しかしこの頃になると、笑顔が多くなり、「教えるより、励ます」ことが多くなる。「何かしら豊田さんは変わられた」と生意気ながら思ったものである。肩書きから解放され、一人思いのまま、好きなように生きる素晴らしさを発見したからだろう。

 関西師友協会副会長としての豊田さんは「立命照隅会」「立志照隅会」「駒ヶ根照隅会」の3講座を担当、後進指導にあたっていた。とくに駒ヶ根の人たちはそのために、わざわざ長野県から来阪して教えに接していた。なかなか継続できることではない。また、私のようなフリーな立場にある多くの人にも、謦咳に接する機会を与えてくれた。

 豊田さんは、安岡師とともに平澤興京都大学元総長(故人)の人間性にも触れ私淑しておられた。その平澤先生が「60代に入ると、一応還暦をすまして、まあ人生のフルコースを済ませて、いよいよ20年の精進がいる。それから娑婆を離れた、楽しい人生の修業が始まる」と言う言葉を残しておられる。それこそが「死して朽ちない」真の学問の姿だろう。豊田さんはその人生を実践されたのだ。
=つづく=

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