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"無言の言"という言葉がある。豊田さんとの出会いは、文字通りそんな一幕からスタートした。
当時私は、関西経済人に多大な思想的影響を持つ東洋思想の碩学・安岡正篤師に興味を抱き、新井正明住友生命保険会長(当時)を軸に取材活動を始めたばかりであった。そして新井さんに勧められ、いの一番に取材を申し込んだのが豊田さんだった。
30代半ばで、新聞記者として多少の自信を得た生意気盛りの頃である。大阪屋證券の役員応接室に通され、豊田さんを待ち受ける。多少の意気込みが体から発散していたかも知れない。
やがてドアが開き、豊田さんが入室すると、その瞬間に、得体の知れない緊張感が室内に漲った。決して誇張ではない。私自身が得た率直な感覚だった。型どおりの名刺交換が済み、腰を下ろす。ホッとする一瞬なのだが、しかし豊田さんの鋭い視線が私の目を捉えて離さない。
瞬間私は、「この視線を外したら負けてしまう。豊田さんの視線が離れるまでは、決してこちらから逃げてはいけない」との思いが電流のように体中に走る。その時間が5分であったか10分であったか正確には記憶していない。ただただ長い数分であった。
あるいは私の意識過剰であったかも知れない。そしてこの真剣勝負は、お茶を運んでくれた秘書嬢の入室で、ひとまずピリオドを打つ。それに謝辞を述べるのが当然の礼儀であり、自ずから私の視線は豊田さんから秘書嬢に向く。ホッとしたあの一瞬の快感を、今でも忘れることはない。
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とは言え、小一時間の取材中、常に豊田さんの視線は私の目に向けられっぱなし。その視線に挑み続けた私のメモ帳は、文字が重なったり、形になっていなかったりで読めたものではなかった。正直言って、その日何を聞いたのか記憶に薄い。ただ「安岡先生を1時間の取材で語れと言われても無理だ。また君は、ピラミッドに入らないで、その中のミイラを採ろうとしている。しかし、君自身が一度ミイラになり、再び蘇るとき、ミイラを持ち帰ることが出来るだろう」との、難解で禅問答のような言葉が今も脳裏に残っている。
これが最初の出会いであった。取材ばかりではない、人との出会いにこれほど真剣勝負で挑んだことはなかった。それだけに、長い記者生活の中でも特異な出会いであり、鮮烈であり、強烈であった。やがて時を経て、この緊張の一瞬こそ、豊田さんから受けた最初の教えであり、"無言の言"というものだった、との思いに至る。
若い小生意気な若造記者を品定めするお気持があったのかも知れない。だが"一期一会"とも言う。再びあることのない出会いかもしれない。それ故に、その出会いに真剣に対応する、そんな思いであったのかも知れない。豊田さんの"無言の言"からその時、形にならない、貴重な何かを学び取った私であった。
豊田さんから見て、私の第一次面接はひとまず合格だったらしい。取材が終わり、謝辞を述べると「またいらっしゃい」の言葉が返ってきた。今度はいささか優しさが込っていた。そして数冊の冊子と本をいただく。「それぞれ10回読んで、また感想を聞かせて下さい」と。ぎゃふんである。
頂戴した本で10回読み返したものはない。しかし数回読み返したものなら何冊もある。その都度、言い訳しつつも、定期的に豊田さんをお訪ねすることが仕事に組み込まれ、いつの間にか、豊田さんに師事する気持が、私の中に育っていった。
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