四十五回 「人物論-17」

苦境時の体験に「肝識」育てる
― 山田稔氏に見る指導者像(下-2)―

 山田稔ダイキン工業元社長の経営人生に、今一つ大衝撃を撃ち込んだのは、昭和63年12月、突如として明らかになった「ココム違反事件」だった。だが山田さんの事件への対応と収拾は、この方をさらに一段大きな人間、そして経営者へと育てていった。

 それは思いも寄らぬことであった。オイルショック以来、長きにわたった苦境期を乗り切り、60年代に入ると同社の業績は急上昇に転じ、順風満帆の日々が続いた。だが、そんな得意の日々を突然襲ったのがココム(対共産圏輸出統制委員会)規則違反事件だった。

 昭和63年12月、通産省の告発により同社は、突然大阪府警の強制捜査を受ける。ココムの輸出規制対象品である高純度ハロン2402を当時のソ連に輸出していた容疑だった。

 今さらその経緯を説明する必要はないだろう。結果のみ記せば、それは事実であり、同社は処罰に服するのだが、しかし異例の2度にわたる強制捜査によっても、「会社ぐるみの計画的犯行」の証しは何一つ出ず、事件は収束に向かう。だが山田さんにとってそれはまさに『菜根譚』が「得意の時、便ち失意の悲しみを生ず」(得意の境遇になったときに、失敗の根が生じるものである)という通りの苦い体験となった。

 私がこの執筆にあたって最も興味を持ったのは、その渦中における山田さんの姿勢と対応だった。前回登場いただいた幹部社員は即座に「正直に対処せよ。そこから生じた問題は、社長である私が責任をとる、との姿勢を貫いた」と答えてくれた。そして、「結果の如何によっては責任を取って辞任する覚悟までしていたと思う」とも推測する。一つひとつの対処を見る限り、私もまた、その推測に頷いてしまう。

 会社に2度の強制捜査が入り、山田さんご自身も、大阪府警から2度の事情聴取を受ける。もちろんその内容について知る者はいない。だがただひとり山田さんに伴い、大阪府警が指定する某所に待機した先の幹部社員は、捜査終了後にその刑事から「あんたのとこの社長は立派な人やな」の言葉をかけられ、目を白黒させた記憶がある。刑事に対して終始毅然とした対応で通したのだろう。

 その年の6月株主総会は大混乱が予想された。それはそうだろう。10月には大阪地裁の判決が出て、同社と担当の営業課長に有罪判決が出ている。その裁判中の株主総会だから、いわゆる特殊株主(総会屋)の格好の餌食だった。

 予想通り株主総会は5時間20分におよぶマラソン総会となったが、山田さんはその株主総会という戦場に"丸腰"で臨んでいる。心配するスタッフ達に「質問はみんな私が受ける。心配するな」の声を残して。

 もちろんスタッフは想定問答を作成していたが、その労をねぎらいながら一顧だにしなかった。また壇上に立ってからは一度も椅子に腰を沈めることなく、次から次へと浴びせられる罵倒にも似た質問に一つひとつ答えていった。その間、立ちっぱなしである。

 トイレにさえ行かずにがんばる山田さんを気遣い、スタッフは何度もメモを入れた。質問打ち切り動議に持っていくことも、休憩をはさむことも可能だった。そのメモ数約20枚。だがその全てを山田さんは握りつぶし、ただただいつになったら途切れるのか予測の付かない質問に答え続けたのだ。

 その間、5時間20分。言うは易く、なかなかできることではない。一度だけ総会場の爆笑をかった。ある質問への回答に時間がかかったとき、総会屋さんから「私の言うことがわからないのか」と凄みのある追い討ち発言を受ける。それにニコッと微笑み返した山田さんは、「あなたの言うことは十分理解できたが、どう答えるかわからないだけ」と。その場にいない私には想像できないが、その発言が、会場の緊張感を随分和らげたという。そして間もなく「もういい。わかった」「がんばれよ」の発言があり、記録的なマラソン総会の幕を閉じる。

 前回の結語に、『人は考え方で変わる』の山田さん語録を紹介した。それを古典は"化身"と表現する。人間は自分をいかようにも変えることができる、という教えだ。すべての体験を自らに反(自反)し、自らを高めていった山田さんの人生に、今さらながら尊敬の念を禁じ得ない。

=この項おわり=


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