四十三回 「人物論-15」

山田学校の人気授業はカラオケ
山田稔氏に見る指導者像(中-1)


井上礼之氏
(ダイキン工業会長)

井上義國氏
(ダイキン工業顧問)
 前号で山田稔元ダイキン工業社長の、関西財界における調整役・斡旋役としてのケースをパターン別に3通り書いた。だが、山田さんが心底喜び、自慢とされたのは、各社の若手スタッフを束ね、交流&研鑽の場作りに一役かったことだった。世間ではその場を『山田学校』と称し、そのカリキュラムの中心は、山田校長お得意の"カラオケ"だった。

 山田さんが、いわゆる関西財界の表舞台に登場したのは関西経済同友会の代表幹事に就任(1977、79年)してからだ。そして同会の場合、伝統的に代表幹事・常任幹事・委員長などを送り込む各社の若手企業人をスタッフに起用、活動をサポートさせるとともに、将来の幹部候補生として、勉強をさせていた。
 山田さんが代表幹事を務めた時にも、当時の若い社員が各々の役員スタッフとして大勢、同友会活動を下支えしていた。その時彼らを見ていて山田さんはフッと思いつく。
 「各々の上司のサポートはしっかり務めているが、彼ら同士の横のつながりがほとんどない。折角の機会なのだから、もっと交流を深めれば、よそのことも知り、互いに良い勉強ができるのに」
 そこで、それとなく機会を作り、彼らと食事をしたり、時に飲みに行ってはカラオケ(あるいは生オケ)を楽しんだ。後々関西経済同友会の代表幹事に就任、文字通り関西財界のリーダーとして活躍した堀切民喜住友信託銀行元副社長、山本信孝三和銀行元副頭取、井上義國元ダイキン工業副会長のほか、故平木英一サントリー元常務、佐々木英彰住友電気工業元監査役、中井鼎三大阪ガス元理事、松下滋三和総研前取締役、岡本好央住友信託基礎研究所社長ら、昭和一ケタから十年代生まれの若手財界スタッフの多くが山田学校の門をくぐっている。

 カリキュラムはカラオケが中心だったと聞くが、歌を楽しみつつ親交を深め、同友会の活動の場では切磋琢磨する仲間になる。一方、関西財界の共通課題を一体化して取り組む大きな戦力になっていくのだが、時代が変わり、その多くが第一線から退きつつある今、多分山田さんは天上から、満足げにご苦労さんと微笑んでおられることだろう。

 山田さんには、人を惹きつけてやまない魅力があった。それは人を包み込む包容力であり、何事をも許してしまう心の広さ、相手を思いやるやさしさ故であった。つまり“恕”の精神が漲っていたからかも知れない。だがそれだけでは、政治世界でもある財界の調整・斡旋役は果たせない。
 この人物論シリーズの杉道助翁の項で私は、幕末の勤王志士・真木和泉の『何傷録』から引用し、"斡旋の才"について記した。
 「いかばかり善き人にても、いか程の徳ありても、人として此の斡旋の才なきものは世の用に立つことなく、無用物なり」。
 そして安岡正篤師はそれを解説して「その斡旋とはどこからくるかというと、情からくる、仁からくる、慈悲、愛情からくる。…事を愛するからして、その事のために何くれと取り計らう、それを斡旋という。人間が利己的であると、この斡旋が出来ない」と記す。

 永年記者稼業を務め、私自身も多少の斡旋・調整のまねごとや若い世代との交流もさせてもらってきた。

 その経験で自信を持って言えるのは、「己の利益」を目的に起こした斡旋の行動は、まず間違いなしに失敗に終わっているということだ。また斡旋の対象・事象への愛情がなければ、それが成就するまでエネルギーが持続せず、途中で目的を失い頓挫する。

 若い世代との交流もそうだ。自分がお山の大将の気分を味わったり、彼らを利用しようという気持が少しでもあれば、遠からず彼らは去っていく。彼らに愛情を抱き、彼らの成長を真にサポートする気持がなければ、若者へのリーダーシップは成立しない。安岡師のご指摘通り、まさに斡旋のエネルギーは、情・仁・慈悲・愛情によってもたらされる。山田さんが、名調整役、あるいは名世話役、そして名斡旋役として関西財界に重きをなしたその背景には、これらの条件がそろっていたのだろう。

 ダイキン工業のステイタスがアップした今、なお山田さんが関西財界におられたら、間違いなしに"第二の杉道助"の評価を得ていただろう。
=つづく=


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