四十二回 「人物論-14」

名調査役として関西財界に重き
山田稔氏に見る指導者像(中)

 山田稔ダイキン工業元社長は、関西経済同友会の代表幹事を2期(1977、78年度)務めた後、関西経済連合会副会長、関西生産性本部副会長などの要職を歴任しているが、いわゆる財界トップのポストには就いていない。しかしそれでいて、今もなお「かつての山田さんのような方がおられたならば」と惜しまれるのは、関西財界の中で果たされたその役割にあった。

 調整役・斡旋役としての山田さんの評価には、つねに"名"の尊称が付いた。決して権謀術策に長けた方ではなかった。また中国の春秋戦国時代、合従連衡策を説いて全国を行脚した論客というタイプでもない。それでいて名調整役と評され、またそれだけの実績を残されたのは、やはり山田さんの包容力と公正無私な人間性にあった。その数場面を再現すると…。

 ある年の関西財界セミナー、「国の安全保障のために徴兵制度の導入も検討すべき」と爆弾発言した日向方齊関経連会長(当時)と、「それには絶対反対だ」と食い下がった中内功ダイエー社長の間で熾烈な議論が展開された。信念をかけての真剣勝負、会場は一瞬異様な緊張感に包まれた。そしてしばしの静寂を破るかのように、やおら発言を求めたのは山田さんだった。

 関西経済同友会代表幹事時代、当時タブー視されていた国の安全保障議論に道を拓いた山田さんである。思想的には師匠格の日向さんに近いものがあったが、「一歩も下がるものではない」と構える友人、中内氏の立場も放っておけない。国の安全に無関心な国民一般に警鐘を発する一方、世論に誤解を与えかねない日向提案をあえて補足し、その場を収める。会場は一瞬、安堵の気に包まれる。

 「日向さんの発言はあの方の信念であり、真に憂国の情から出ている。また戦争で九死に一生の体験をした中内も必死だった。2人と親しい俺が何とかしなければと、思わず手をあげていた」とは後日の述懐だ。




 2001年3月、大阪にオープンした大阪国際会議場は、"山田プロジェクト"とも言える事業だった。府・市、財界の意見調整、建設候補地の一本化など困難な作業の中で最も苦労されていたのが山田さんだった。

 当時、関経連副会長だった山田さんは、建設促進の同志であった中塚昌胤大阪21世紀協会理事長と、建設予定地の地主である大阪国際貿易センター社長を兼務する芦原義重関西電力名誉会長を訪ね協力要請した。
 だが親父のような存在であり、師匠格でもある芦原さんから発せられた一言は「君たちでは話にならない、もっと責任ある者に来てもらってくれ」だった。

 これも後日、「俺たちの上となると岸知事か大商会頭の佐治さんかな。それにしても芦原の爺さんからすれば我々も子供扱いだった」と苦笑するが、もちろん、芦原さんの本音がそこにあったのではない。旧知で、肝胆相照らす山田さんであったからこその、芦原さんのきつーい一発であり、この儀式を経て、いよいよこのプロジェクトは実現に向け走り出す。

 大勢が佐治敬三サントリー社長を大阪商工会議所の次期会頭に推し上げることで固まりつつあった1985年夏。だがなお当時の古川進会頭陣営との間で、会頭交替の詰め作業が進んでいなかった。佐治陣営の意を受けた私は、古川陣営の総参謀、近藤駒太郎副会頭の元に何度か足を運ぶ。実直、律儀な古川会頭からして、例えば「軽佻浮薄のすすめ」を説く闊達な佐治さんに一抹の不安も感じていた。古川さんとしては何らかの保証を取り付けておきたかったのだろう。近藤副会頭から出された注文は「佐治さんが信頼し、また佐治さんにものを申せる人と話し合いたい」というものだった。早速佐治陣営の某氏と案を練るが、その注文にかなうのは山田さんしかいなかった。

 早々に北新地の某クラブで、近藤さんと山田さんが偶然に会する機会を演出、私とサントリー某氏は近くのスナックに待機する。30分で別れれば失敗、1時間以上続けば成功、と読んでいた。2時間経っても2人の会話は続き、かつ和気藹々との情報が入る。結果は成功、この時をもって、古川さんから佐治さんへのバトンタッチ作業は一気に進むことになる。

 ごく一部、山田さんの調整・斡旋の場面を再現したが、それを成し得たのはやはり山田さんの、他に愛された人柄故であったのだろう。
=つづく=


ご意見・ご感想をお待ち申し上げております