四十回 「人物論-12」

知価社会の開拓者にして先駆者
里井達三良氏にみる指導者像(下-2)

 里井達三良元大阪商工会議所専務理事・副会頭から学んだ人間学を連載してきたが、その間、同じ里井さんの薫陶を受けた方々から色々と注文を受けた。「あれもきちっと記録に残しておいて」云々である。結局3回では完結せず、(下) の続編を記すことになった。

 戦前の大阪商工会議所に勤務した竹中寛次さん(前々回紹介)からお便りをいただいた。里井さんより4年後輩で、“敵国語”の勉強を続けたことで特高警察につけ回されたもうお一人の方だ。そこには「確かに里井さんは、一回りも二回りも大きな存在で、まさに知価社会の開拓者であり、先駆者でありました。会議所の同じ屋根の下で共に在ること自体大きな幸運でした」と記されていた。記者の里井観を実証していただく内容に感激する。

 そしてこの"知価社会の開拓者"に関連してある勉強会を紹介したい。昭和49年に発足した「おおさか21の会」のことで、この7月の例会が301回目という老舗の勉強会だ。元々は関西国際空港の建設推進に携わった人たちが、里井さんを中心に発足させたものと聞く。だがその後メンバーは活動分野や年齢を超えた忘年(年齢の差を忘れる)・忘形(地位や名誉の違いを忘れる)の交流会へと発展していく。

 発足からこの会の事務局を担うインターグループの小谷泰造社長は、「この会から多くの若い者が社会に飛び立った。私自身がそうだし、吉野君や君(記者)だってそうだ。みんな里井さんの信用を支えにして巣立った里井門下生だ」と強調する。

 私のことはすでに書かせていただいた。小谷さんについても『素顔の紳士録』(弊社刊)に詳しいが、昭和41年の創業の時、「これからの大阪は必ず国際化の時代を迎える。その時に必要になるのが、あなたが志している通訳や国際会議を運営する会社であり、機能である」と励まし、その上、里井さんは無給で顧問に就任、小谷さんに信用を提供している。

 この励ましと顧問就任が同社発展の基礎だというが、時には「今は技術的に未熟だが、大阪もこういう会社を持たねばならない。我慢して使ってやって欲しい」と知り合いのスポンサーに手を回す心遣いもあった。わが国最大手の国際会議運営会社に成長している同社にもこんな時代があった。
 またダン計画研究所を経営する吉野国夫さんも、事業のスタートはこの勉強会の事務手伝いからだった。以後空港関連調査に始まり、町づくり関連の諸々のシンクタンクとして大阪に欠かせない存在になっている。

 「おおさか21の会」は異業種交流会の草分け的存在で、多くの経済人に混じって『油断!』を著す前の堺屋太一さん、『日本沈没』をヒットさせる前の小松左京さんはじめ学者・文化人・芸術家などの異分野の人たちが交流し、知恵を交換してきた。また加えて実践的パワーもあった。
 メンバーであるNHK大阪放送局の大塚融記者(当時)がある時、国立民族学博物館の若い研究者と太平洋に浮かぶある島(サタワル島)の青年を連れてきた。聞けば、その島で研究活動をしたそのグループが、「島の人たちにお礼返しをしたい」と、辞書づくりを思い立った。そこで共同作業をすべく島の青年を迎えたが、彼らの薄給では青年の滞在費がまかなえない、何とかならないか、という話である。
 メンバー有志で相談した結果、大阪商工会議所の文化部会に相談することになる。あの昭和29年、里井さんが大商に創設した組織である。

 その頃の部会長は白山宣太郎白山殖産社長(故人)。「良い話だ」とその場で支援を約束してくれたが、一つだけ「前部会長の里井さんの了承を得ること」の注文を付けてきた。だがこれは、いとも簡単なことだった。里井さんは21の会の座長であり、しかも若い人の情熱には至って寛容な人である。私も加わり、里井さんの了解を得、白山部会長に報告する。
 こうして大商文化部会としては前代未聞の基金活動となり、2回にわたり300万円の浄財拠出を行っている。そしてこの若い研究者こそ、観光学分野で活躍する石森秀三国立民族学博物館教授である。
 里井さんの理解あればこその事業だったが、こうして直接、間接に里井さんは若い世代のパトロンとなり、サポーター役を果たしていった。今大阪に、この存在が激減しているのが残念である。
=この項おわり=
 

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