三十九回 「人物論-11」

梅棹・司馬氏も魅せられる人間性
里井達三良氏にみる指導者像(下-1)




1981年7月『夕映えの道』出版パーティ
 元大阪商工会議所専務理事で副会頭も務められた里井達三良さんは無類の若者好きだった。時に厳しく鋭い眼差しを見せる里井さんの表情が、若い人に接すると一変、顔がほころびる。とりわけ異質の若者に会うとその度合いが深くなる。私自身、何度もそんな里井さんの"変容"を垣間見、微笑ましく感じたものだった。

 梅棹忠夫・国立民族学博物館顧問(初代館長)が里井さんと最初に出会ったのは昭和39年という。この年、東京オリンピックが華やかに開催され、それと重なるように「次は大阪で万国博覧会が開催されるらしい」という情報が流布された。「これはおもしろいことがやれそうだ」と感じた梅棹先生は、早々に林雄二郎、川添登、加藤秀俊、小松左京の4氏とともに『万国博をかんがえる会』という研究会をつくり、活動を開始する。いずれも当時30代から40代初めの少壮学者、文化人たちだった。

 梅棹先生の近著『行為と妄想』(中公文庫)によると「当時は万国博覧会という名もきまっていなくて、一般には国際博と称していた」時代であり、「見本市の一種くらいにかんがえていたひともおおかった」という。しかし研究すれば、万国博とは「文化の祭典」に他ならず、見本市とは基本的に違うものであり、それを関係者たちに強く訴えることにしたのだ。

 当時、万国博誘致の中心にいたのは大阪府と大阪商工会議所だった。梅棹先生はこの万国博にかける思いを大阪商工会議所に持ち込むのだ。こうして里井さんとの出会いは運命的に演出される。

 大正9年お生まれの梅棹先生と明治41年お生まれの里井さんは同じ申年、一回り里井さんが兄貴分ということになるが、里井さんと梅棹グループはたちまち強い絆で結ばれることになる。「最初であったときに、この人とならなんでも話ができると確信した」とは、私がずっと後になって直接、梅棹先生から伺った感想だが、ここは『行為と妄想』から、出会いの後を追ってみたい。

 「わたしたちは商工会議所専務理事の里井達三良氏と会見して、"結婚を前提としない交際"をすることとなった。わたしたちが商工会議所にとりこまれて、下請け業者になることをこのまなかったからである」

 「その後、日本万国博覧会協会がつくられ、…かんがえる会のメンバーは、表だって公式委員となることはほとんどなかったが、実質的な演出者の役をつとめた。テーマ委員その他の委員の人選の原案もわたしがつくった。チーフ・プロデューサーも、わたしたちが推薦した岡本太郎氏に決定した」

 日本万国博覧会協会が発足した後、里井さんは大商専務理事のまま同協会常務理事に就任しており、梅棹グループとの約束事を実行に移せる立場にもあった。しかしそれにも増して私を感動させるのは、昭和39 年時点の大阪商工会議所が、よくぞ少壮学者・文化人の意見をここまで受け入れ、また実行に結びつけたものだ、ということである。

 当時の一般的風潮として大阪経済人は、むしろ学界人や文化人との交流を避ける傾向にあった。梅棹先生ご自身その近著で、当時の大阪経済人とはやや距離感があったことを指摘されている。せいぜい経済学部の先生方との交流があっただけだろう。

 それを、こともあろうに少壮の文化人類学者や作家の意見を、重要な部分に取り入れたのだから、橋渡し役としての里井さんの心境たるや、清水の舞台から飛び降りる気持だったろう。里井さんであったが故の両グループの融和であったことは疑いない。前回記したが、文化不毛の地(?)の商工会議所にあえて文化部会を発足させた里井さんの面目躍如である。

 初回に紹介した里井さん著『夕映えの道』の出版祝賀会に駆けつけた作家の司馬遼太郎さんがその挨拶で「私の文章は、いまだに里井さんの文章を超えることができない」と語っていたことが記憶に強く残っている。その意味を今も考え直しているのだが、多分、里井エッセーのベースにある里井さんの人間性―文化性・人間愛・優しさ・好奇心などそのすべてを読みとっての司馬さんの言葉であったのだろう。そしてその里井さんへの思いは、梅棹先生にも同じだったのだろう。
 

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