十七回 「人物論-9」

若い世代の精神的パトロン 里井達三良氏にみる指導者像(上)



1981年7月『夕映えの道』出版パーティ
 記者が薫陶を受け、またご恩をいただいたお一人に里井達三良(たつさぶろう)さんがおられる。元大阪商工会議所専務理事で、関西国際空港ビルディング社長を務め、さらに古巣大商の副会頭にもなられた方である。経営者とは言えないが、大阪を代表する経済人であり、文化人であり、さらに若い世代の精神的パトロンでもあった。その生き方は知的でスマート。「絹のハンカチ」と称されることもあったが、同時に厳しい一面をお持ちの特異なリーダーだった。

 私事から入らせていただく。わが社の出版事業第一号となった『夕映えの道』(里井達三良氏著)の誕生秘話からである。
 関西ジャーナル社を創業(1980年4月)して間もなく、夏の終わりの暑い一日だったと記憶するが、里井さんに呼び止められお話しする機会を得た。驚いたことに「私の随筆集を君の会社から出版してもらいたいのだが」とのお話である。関西経済界では随一の文筆家と言われ、すでに『茗香』(みょうこう)というエッセイ集を出しておられた。
 「その後、あちらこちらに書いたのがかなり貯まったので、また一冊にまとめようと思う。良かったら、君のところから出してもらいたいのだが…」

 正直言って驚いた。明治41年のお生まれ。すでに古稀の年齢に達しておられた里井さんには、経済界はもとより、文壇や出版界にも知己が多かった。『茗香』がそうであるように、創業したての、海のものとも山のものともわからぬ私どもにご下命があるとはどうしたことか、と正直思ったものである。だが、冗談を言われるような方ではない。正式な依頼であることは間違いない。瞬間、色々頭をめぐらせた。

 『関西ジャーナル』紙発行以外の業務はなく、一般出版物はまだ手がけていなかった。故に印刷会社の信用もなく、仮に仕事を出すにも常識的に費用の半額前納が必要となる。恥ずかしい話だが、その資金はなく、また最終的に費用を完済する自信もなかった。あれこれ考えた末、「のどから手が出るほどの仕事ですが、今の私にはその力がございません」と、愚かにもその場でお断りをした。迷惑をおかけすることを恐れたからだ。

 たまたまその翌日、兄貴分的な気持ちでお付き合いしていただいていた若手経営者と会う機会があった。相手は、今ではわが国最大手の国際会議運営会社に成長しているインターグループの小谷泰造社長だった。何気なく、前日の里井さんからのお話と、お断りした事情を吐露したのである。

 途端に小谷さんが大声を上げた。
 「お前は、里井さんのお気持ちが読まれへんのんか。金もない、信用もない君やからこそ、その仕事を君に出そうと仰ったんや。金やったら俺が何とでもするから、これからすぐに里井さんのとこへお伺いして、改めてお願いして来るんや!」
 こんなお叱りだったと記憶する。そして、やや気障っぽく(?)
 「俺も里井さんのお蔭でこの会社を興すことが出来た。君に貸す金が仮に戻って来んでも、里井さんへのお礼返しやと思たら、なんにも惜しないわ」

 伊丹にある関西国際空港ビルディングの社長室に里井さんを訪ねたのは、それから数時間後であった。
 ニコニコ顔で私を迎えてくれた里井さんは、改めての私のお願いを快く聞き入れてくれた。そして早々に手元にあった原稿の一部を私に渡し、「無理にお願いして申し訳ないがよろしく頼みます」と言って下さったのだ。そして印刷も、かねて懇意にされている東洋紙業の朝日多光社長(当時)を紹介してくれ、里井さんご自身から直接、配慮方を頼んでいただけた。
 こうして翌年7月、『夕映えの道』は出版され、同月21日には盛大な出版パーティが開催される。経済人多数に混ざり、梅棹忠夫・国立民族学博物館館長(当時)、作家の司馬遼太郎さん(故人)、小松左京さんら錚々たる方々も駆けつけ、その出版をお祝いした。もちろん出版元として当社も紹介される栄誉を得る。会社として世間の信用を得た最初の喜びの日であった。
 

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