十六回 「人物論-8」

現実論から生じた理想論   日向方齊氏にみる指導者像(下)
 元住友金属工業社長・会長で、関西経済連合会会長も歴任された日向方齊さんが、国家観に裏打ちされた「信念の人」であったことを述べてきた。その謦咳に触れただけで、そのことを強烈に思い知らされたリーダーは、私の体験でも数少ない。その意味でも日向さんを「関西財界、稀代の指導者」としても間違いではないだろう。その日向像を日常の中から追った。

 関経連会長に就任した日向さんが、いの一番に着手したのはスタッフ陣の充実・強化だった。関経連事務局に数人のスタッフを出向させ、社内にもブレーン集団、大阪調査室を設け、常時5、6人を配置していた。関西国際空港および関西文化学術研究都市の建設促進が、"日向関経連"の主要事業だったが、当然そのブレーンが事業推進の重要な担い手になっていく。

 関西社会経済研究所の宮原孝信事務局次長は当時、そのブレーン集団の若手メンバーの一人だったが、それらの実務を通して仕事の進め方を身に付け、また「財界人とは、指導者とは」のあり方を学んだという。

 スタッフが一様に日向さんに魅入られるのは、「非常に強い国家意識と信念」だったというが、すでにこれについては述べてきた。また、その信念を形に表すに、「抽象論ではなく、つねに具体的であった。だから日向さんの理想論はいつも現実論から生じていた」と宮原さんは回想する。

 前回、「貧を友とし、苦学力行を常とした」日向さんの少年・青年期に触れたが、この前半生と無縁ではなかろう。いわゆる書生の空虚な理想論など元々持ち合わせていなかった。造船所で修理船の底に張り付いた貝を除去しながら上級学校進学の資格取得を目指した日向さんにとっては、一日一日が目的達成のための具体的な一日だった。

 だから仕事の進め方にしても「まず目的と戦略をはっきりさせてから、計画的に行動した」といい、その都度、"選択と集中"を心がけていた。だからだろう、ほぼ推進運動の時期が重なった新空港と学研都市のプロジェクトにしても、「京都の学界や経済界から、重ねて要請を受けながら学研都市の建設推進運動には腰を上げなかった」。関西財界のエネルギーが2つのプロジェクトに分散することで、共倒れすることを懸念したからだ。そして、新空港建設に目途がついたその瞬間、日向さんのリーダーシップは、一気に学研都市建設に向く。まさしく"選択と集中"であり、同時に、決断し、実行に移すその素早さは見事であった。
 今、関西財界は当時に比べてもいよいよ沈下する地盤の嵩(かさ)上げに躍起になって取り組みつつある。だが、今何が最も必要で、それを具体化するためにどういう計画と戦略が必要で、実現に向け、それぞれがどう行動するか、という全体計画が見えてこない苛立ちを抱えたままである。日向さんがおられたら、われわれにどのような指示を下されるのであろうか。

 日向さんの特筆すべき今一つの資質は潔癖すぎると言っても良いほど身の回りがきれいで、公正無私だったことである。「清濁併せのむのが男の懐」ということになれば、日向さんはいささかそれとは違っていたかも知れない。しかし日向さんは、自らも曲ったことは一切なさらなかったし、周りにも怪しげな人は決して寄せ付けなかった。それは徹底していたという。

 日向さんの角さん(田中角栄元首相)嫌いは有名だった。それもこの潔癖さに無縁ではない。当時、大きな国土開発事業の推進にあたっては、「目白詣」が当然のように行われた。元首相のお墨付きを得ることでその事業が進むからだ。そして、頑なに目白詣を拒絶する日向さんに、新空港建設に携わるスタッフは拝みたおす。ようやく「一言も話さない。君たちについて行くだけ」の条件で一度だけ、目白詣を実現させるのだが、日向さんは本当に元総理に、一言も発しなかったというから、その頑固振りは半端ではなかった。

 そんな日向さんだったが、人使いは上手で、「人たらしだった」と宮原さんもいう。「人を見る眼が細やかで、部下が発奮する一言を必ず付け加えた。特に若い人の意見は聞き、自分が知らないことはいくら若い社員の話でも虚心に聞いておられた」とか。今さらながらリーダー中のリーダー、日向方齊翁に想いを馳せる。 

ご意見・ご感想をお待ち申し上げております