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その日向さんに長きにわたって仕え、懐刀の一人と言われた八束信作元住友金属工業秘書役(故人)は、日向さんが亡くなられた平成5年3月、本紙に次の追悼文を寄せている。
「日向さんの生涯を貫く一本の棒の如き赤いものはまぎれもなく、日本という国への熱い思いに外ならなかった。日向さんの多角的、かつ華麗な活動の底に流れる主旋律はいつも"日本"であった」
そして、その人生観の背景に明治天皇と元住友本社総理事・小倉正恒氏の2人を見る。
八束さんの日向レクイエムを今少し紹介しよう。
「日本は自由と機会均等の国。能力と努力次第で世の中から尊敬されるリーダーになれる、といい、そのことをこよなく感謝していた。明治以前の固定的な身分社会から、階級流動的な自由社会に移って初めて今日の自分がある。その改革を成し遂げられたのは明治天皇であった。日向さんにとっては、殆ど救世主ともいえる神の如き存在であった」
「小倉正恒氏は住友財閥の最高責任者として、日向さんを秘書役に取り立て、出世の糸口を与えたのみならず、人間そのものの師であった。…後年、自由主義経済の旗手として日本経済を高度成長させた日向さんの手腕は、この小倉イデオローグが基となっている。小倉さんなければ今日の自分はない、と日向さんは思っていた」
「階級流動的な自由社会に移って初めて今日の自分がある」の日向さんの感慨は、その少年期・青年期に目をやれば、すぐにも納得できる。それこそ階級が固定化された時代に生まれていたら、少なくとも今、私が日向方齊論を書くこともなかったろう。
日向さんは明治39年2月、山梨県の久那土村車田(現下部町)に生まれる。「峡南と呼ばれるこの一帯は、平地が少ない上に寒暖の差の激しい、貧しく不便な地方」(日本経済新聞・私の履歴書)だった。ご先祖は武田信玄旗下の二十四将の一人というが、その山間の村の、貧しい家に育ったようだ。何故なら、その村で日向さんは尋常高等小学校を卒業すると、旧制中学校に進学することなく、親戚を頼り、横須賀の海軍工廠造船所に働きに出ているからだ。 |
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そこで製図見習工として働くが、時に修理舶の船底に付着した貝を削ぎ落とす労働にも従事した。この作業は大変な肉体労働だったというが、そのようなことで、「世の中に高校、大学といった修学のコースがあることを全く知らなかった」(『私の履歴書』)くらい、何も知らない山村育ちの少年だったのだろう。
そんな日向さんにとって転機になったのは、造船所に指導教官として配属されたある海軍中尉だった。国から学費補助をもらって東大造船工学科を卒業したその中尉から、上級学校の仕組み、資格試験(現大検)学費補助などの仕組みを聞いた日向さんは、それを機に一気に向学の心に火を点けるのである。
それ以後日向さんは、昼は働き、夜は夜学に通って東京府立五中の卒業資格を得、旧制東京高校、東京帝国大学へと進む。旧制高校への入学が19歳、「尋常科の連中からおじさん、おじさーん、とはやしたてられる」年齢に達していた。
その事実を知って、階級流動化の自由社会なかりせば、今日の自分はなかったという日向さんの述懐は十二分に理解できるし、こうした苦学力行の中から人生哲学の多くを学び取っていく。かわいがってもらった小学校の校長先生からは「大人になったら、社会のために働くように」との教えを受け、また勤めた住友の経営理念が「国家社会のため」、であった。だから「事業を通じて国家に尽くすことが私の精神と行動を支配してきた」という。
前回私は、「国を憂える真情が、日向さんの使命感の根底にある」と書いたが、三つ子の魂がその人生を貫いた。80余年のその人生を追って、今改めてそのことを理解する。
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