十四回 「人物論-6」

 日向方齊氏にみる指導者像(上)
 使命感が貫く胆識の人

 元住友金属工業会長で、関西経済連合会会長も務められた日向方齊翁。お若い頃は"けんか方齊"とも称され、信念のためには、たとえ相手が政府であろうと一歩も引かない激しさの反面、もの静かで穏やかな風貌の持ち主であった。外に穏やか、内に激しい心をお持ちのリーダーだった。
 だが、私が知る日向さんは、文字通り「深沈厚重なるは、是れ第一等の資質」(呂新吾『呻吟語』を地でゆく老熟したリーダーであり、取材で謦咳に接した中で、最も尊敬する経済人のお一人であった。

 明治39年生まれ、孤高のリーダーと言っていい後年の日向さんに、若輩記者の私がお目にかかったのはさほど多くない。何度かの公式取材の他、私の独立の際にご挨拶に上がり、激励の言葉をいただいた他は、多くの記者と同じく、関西財界セミナーや各種会合で取材をし、またパーティーなどでその謦咳に接した程度のお付き合いである。
 だが「その程度」ではあっても、日向さんから発せられる「気」は尋常でなく、それだけで私などは威圧され、圧倒され続けた。とりわけ国を憂う真情には篤いものがあり、それが日向さんの使命感の根底を成していた。そのことを我々に思い知らしめたのは、伝説的事実として今に伝わる関西財界訪中団派遣で果たした役割であり、また当時、触れてはいけない聖域とされた防衛論議に道を拓いたこと等々であった。

 平成5年3月1日付けの本紙で、私は日向翁の追悼記事(同年2月16日逝去)を書いている。一部を再録させていただく。
「…誰しも日向さんを知る人なら、これに(深沈重厚なる人柄)疑いを挟むまい。文字通り、第一等の資質を授かった方であり、またその資質を、惜しげなく社会に放出されたリーダーであった」
 単なる第一等の資質を備えた人格者であったわけではない。また頭脳明晰な戦略家だけでもなかった。いかなる抵抗・障害があろうとも、自らがやらねばならないと信じた使命に向かって実践、行動する「胆識の人」でもあった。

 私の日向翁追悼記事は、それを事実で裏付ける。
 「…誰もが躊躇した日中国交回復前の関西財界訪中団の発案と編成(昭和46年)。その勇気ある決断が、翌年の日中国交回復への扉を開く」
 この訪中団は、オール関西財界で編成したわが国政・財界初の大型ミッションで、秘かに佐藤栄作首相の親書を懐中に抱き、翌年の田中角栄首相による国交正常化の露払い役を担ったものだった。そしてこの訪中団が、当時関経連副会長だった日向さんと、自らも代表幹事を務めた関西経済同友会(当時の代表幹事は山本弘住友信託銀行会長と佐治敬三サントリー社長)の連携によって実現したことは誰しもが知るところ。

 また次の記述もある。
 「徴兵制度の研究を始めることも考える時期、と発言、批判の火の粉を被るときもあった。その思想はともかく、自らの信念に生きようとする老経済人に(すでにその頃は)、私は鬼神さえ感じたものである」
(*昭和55年2月、関西財界セミナーで発言)

 安全保障問題は、今でこそ気軽に論議されるようになってきたが、しかし敗戦後から長年、この防衛論議は、「わが国の軍国主義の復活につながる」として禁句扱いされ、誰一人として公式の場にそれを持ち込むことはなかった。
 しかし日向翁はその風潮を嘆き、自らの手で自らの国の安全を守ろうとしない日本の将来を憂えていた。

 昭和46年の訪中団派遣の時にすでに日向さんはこの問題に触れ、当時の周恩来首相から「独立国家として真の自衛のための軍備を持たないのはむしろおかしい」という言質を得ている。中国がわが国の自衛力まで否定しているわけでないことが明らかになったのだが、徴兵制度の研究発言はその延長線上の勇気ある発言であった。
 しかしこの訪中団派遣で右翼から、徴兵制度発言で左翼から、激しい抗議を受けることになる。その凄さはご家族に犠牲を生む結果になるのだが、それを悔やむ弁は、生前の日向さんからついに一言も出ることはなかった。

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