三十二回 「人物論-5」


第1回大阪コレクション
コシノヒロコさんのステージ(1987年11月)

「大阪のエネルギーを引き出す」
佐治敬三氏にみる指導者像(下)

「佐治さんが亡くなられてから、大阪は灯の消えたようになった」と先に記した。「佐治さんなら、何とかしてくれる」との期待をこの方になら託すことが出来た。佐治敬三サントリー会長(元大阪商工会議所会頭)は、理屈抜きで大阪の元気印であり、またそれだけの実績をわれわれの前に示してもくれた。

 私自身、佐治さんの理解を得て重要なプロジェクトを成就させた体験を持っている。今年で16年目を迎える「大阪コレクション」(大阪コレクション開催委員会主催) がそれだ。その経緯については本紙の平成13年11月15日号に詳細を記している。

 能村龍太郎太陽工業会長、コシノヒロコさん、萩尾千里朝日新聞編集委員(当時)、私の4人がゴルフを楽しんだ時、コシノさんから「若いファッションデザイナーを育成するため大阪コレクションという場が必要。行政・財界の支援が欲しい」の提案を受けた。3人ともそれを前向きに受け止め、「大商の佐治会頭の了解が得られるならば」の条件で協力を約束する。
 翌日、最も若年の私が伝令となり、柴田暁秘書部長(当時)を通じ意向を打診する。その翌々日、柴田さんから、早々に返事が来る。「私もそういう場が必要と感じていた。是非とも実現に向け動いて欲しい」という伝言であった。

 実は我々には、正式な返事を待たず「必ず佐治さんは了解してくれるだろう」との確信があった。盟友である能村さんがその一員に加わっており、しかも、本当に必要なものを即座に判断する感性と、「まずはやってみよう」という行動パターンを熟知していたからだ。(第1回大阪コレクション開催までのプロセスは、ここでは省略する)
 もしその時の佐治さんの一声がなければ、実行委員長として今日まで実行責任者を務めることになる能村さんも、ここまでの関わりを持たなかっただろうし、私もまた、佐治さん、能村さんの後ろ盾がなければ、本業を犠牲にしてまで、この仕事にのめり込まなかったろう。

 もちろんこの事業が順風満帆に推移したわけではなかった。もう世代もすっかり代わったので、時効扱いをさせていただくが、佐治さんが会頭を務める当時の大阪商工会議所が、最初から協力的であったわけではなかった。当時の事務局幹部から、「あなた方に対して協力を約束したのは、サントリー社長としての佐治さんであって、大商会頭としての佐治さんではない。故にサントリーさんに協力してもらってほしい」旨の冷たい発言を受け、唖然としたこともあった(もちろん現在は非常に協力的であることを付記しておく)。
 そんなことで悲憤慷慨していた頃、たまたま佐治さんにお目にかかる機会があった私は、推進チームを代表して佐治さんに憤懣をぶちまけ、善処方を要請したことがあった。その時のシーンが今も鮮烈に蘇ってくる。

 「あいつら、そんなこと言うとんのかいな。困ったもんやなぁ」と高笑いし、「それやったら、プロジェクトチームを作ってやらなあきまへんな。しかしそれも面白いかも知れへん。能村君に、佐治が全面的に協力するから、よろしゅう頼むと伝えといて」とのこと。もちろんその裏で、柴田秘書部長を通じて、大商事務局のぎりぎりの支援体制は整えてくれている。
 大阪の公的事業でありながら、開催委員会が当社のような創業して間もない小新聞社に運営事務局を委ねることになったのはこのような事情からだった。

 前回、「任せた以上、徹底してそれを支援した」という津田和明サントリー副社長の談話を引用した。奇しくも社外の私も、その恩恵に浴したことになる。大阪コレクションのようなケースは社内外にいくらでもあるだろう。今や大阪の10月の風物詩になった「御堂筋パレード」や、暮れの年中行事である「1万人の第九」のイベントも佐治さんがいなければ決して生まれることはなかった。

 自らもエネルギーを放出する一方で、大阪に噴きだそうとする各方面のエネルギーを巧みに引き出す方でもあった。そうしながら若い人材を育て、大阪に灯をともし続けたのが佐治さんであった。200人近い人たちが一文を寄せる『佐治敬三追想録』を読んで、今さらながらに感心する。何と佐治さんを師とし、恩人とする方々の多いことかと。


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