十回 「人物論-3」

 信義に裏付けられた情の人

  佐治敬三氏に見る指導者像(上)

 「佐治さん(敬三サントリー会長)が亡くなられてから、大阪は灯が消えたようになった」の声が巷間に満ちあふれる。そして私自身も、同じ想いを抱く一人である。もちろん、いかな佐治さんとはいえ、お一人の力で、この沈みきった関西・大阪の浮上は為しえなかったに違いない。にもかかわらず、われわれのイメージから佐治さんが未だ消えやらないのは、それだけ佐治さんの存在が大きかったということなのだろう。
 佐治さんは、杉道助翁とはまた別の意味で、戦後大阪が生んだ偉大なリーダーのお一人であった。

 佐治さんが、関西経済連合会の副会長を経て大阪商工会議所副会頭に就任したのは昭和56年12月だった。そして同60年12月には第21代同会議所会頭に就任、以後7年間にわたり、文字通り関西・大阪のトップリーダーとして比類のない指導力を発揮している。
 当時の私は40歳前後の取材記者。世間で言うところの脂がのりきった記者稼業を楽しんでいる時代だった。それだけに佐治さんにお目にかかる機会は多く、「新聞記者の中では最も佐治さんを理解する一人」という自惚れもあった。
 だから、「杉道助翁の次は佐治さんを通しての人物論を」と決めていた。しかし、書き出そうとするのだが、なかなか文章が進まない。困った私は、ついにサントリー本社に、佐治さんの薫陶を強く受けたであろうお一人の、津田和明副社長を訪ね再取材する羽目になる。

 そこで改めて知ったのは佐治さんというリーダーがとてつもなく大きく、多面で、かつ多様な顔を持つ特異なリーダーであったということだった。とても私一人の眼識で処することなどできなかったのだ。
 逸話にある、目の不自由な何人かが巨象の一部に触れ、それぞれに象のイメージを作り上げるのに似た話である。そして『佐治敬三追想録』を読んでもそのような感じを受けるし、このテーマ設定にやや不安を感じる私である。そこで気負うことなく、津田さんの佐治さん理解を交えながら、私なりの佐治敬三論を展開することにした。

 私が、佐治さんを語るときによく使うのは、清水の次郎長一家論である。幕末から明治にかけて実在したとはいえ、私の知る次郎長像は少年時代の東映映画から得たものであり、それと俗に言われる「佐治グループ」を対比するのは、はなはだ失礼な話である。しかしそれを話せば、ほとんどの人が納得していたから、当たらずともそう遠くはないはずだ。
 戦後間もなく、大阪工業会に「新人会」なる当時の若手経営者の勉強会が発足した。佐治さんのほか森下泰(森下仁丹社長・故人)、山田稔(ダイキン工業社長・故人)、古市実(特殊機化工業社長)、能村龍太郎(太陽工業会長)、吉本晴彦(吉本土地建物社長)といった大正世代の方々を主にする自己研鑽と懇親の会だった。そしてそのメンバーが大阪青年会議所(大阪JC)を設立するとともに、以後長年にわたる友達グループを作り上げることになる。

 決して年齢だけではなかったろう。その輪の中心には常に佐治さんがあったという。いわゆるリーダーである。そしてJC卒業の40歳を超えた後もグループは結束を強め、京都・神戸と輪を拡げ、さらにその後輩たちが加わってますます輪は巨大化していく。それが関西に独特の存在感を持った、いわゆる「佐治グループ」である。

 そのグループを次郎長一家に重ね合わせ、私なりに役を振り分けた。次郎長はもちろん佐治さんであり、大政は山田稔さん、小政は古市実さん、そして弟分の吉良の仁吉は能村さんという具合である。そしてこの仲間たちは「親の血を引く兄弟よりも」強い絆で友情を高めていく。
 「情の篤い人だったが、その情は信義に裏付けられたものだった」と津田さんは回顧する。だからこそ「佐治次郎長一家」は成り立ったのだろう。決して人を裏切らない人だったともいう。ますます任侠の人になったが、これもまた佐治さんの一面に違いない。

= つづく =


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