第二十九回 「人物論-2」

 
 有徳の、優れた斡旋役

 杉道助翁に見る指導者像(下)

 戦後の関西財界の傑出した指導者と評される杉道助翁が、深沈厚重、有徳のリーダーであったことは前回記した。決して博覧強記、頭が切れ、弁舌さわやかな才人でもなければ、豪放磊落、見るからに人を惹きつけて止まない豪勇型のタイプでもなかった。しかしながら人徳があり、誰からも愛される至誠のリーダーであったことは、翁が後世に残された事績からもうかがえる。名調整者であり、優れた斡旋役でもあった。

 「関西経済連合会刊の『関西財界外史』に次のような杉評が載っている。
 「公平無私、至誠をもってつらぬき、何人からも愛されていた。大阪財界のみならず、大阪の大恩人といってよい。…万博を、のちに大阪で開くようになったのも、もとは杉の発想だという。円満な人柄で、常に財界の融和に意を用いた」
 また『大阪商工会議所百年史』も杉翁自身の言葉を紹介しながら次のように書いている。
「杉ほど財界活動にピッタリの人はいなかった。杉は本会議所のために生涯の大半を捧げたのである。『これは私の性格が多少世話好きなためかも知れない。まあ少しでも人が仕合わせになればと思ってやった結果が人に世話好きと言われるほどになったわけだが、これはむしろ祖父の民治の性格が遺伝したためであろうか』、と杉は述べている。円満な人格で、世話好きで、常に財界の融和に意を用いた。名会頭であり、愛される会頭であった」

 当然頼まれれば何でも引き受けたわけではない。先の『関西財界外史』は、昭和31年、鳩山首相が訪ソのさい日ソ交渉全権顧問を委嘱されたり、赤間大阪府知事の後任として知事選出馬の要請を受けたが、いずれも「その任にあらず」と断った事実を紹介する。
 それでいて当時わが国外交上、最も難関とされた日韓会談の首席代表を引き受け、病に倒れるまで、誠心誠意その成立に尽力している。当然、杉翁なりの思想・信条があって、それを諾否の根底においたのだろう。

 それにしても大商会頭在任14年、まだ敗戦の傷痕を色濃く残す大阪で、杉さんが仕上げた仕事は多い。それもほとんどが大商の単独事業ではなく、行政を抱き込み、大阪を、あるいは関西を一本にまとめ上げ、全体の合意をとりつけて事業推進するタイプのものが多い。

 杉さんが50年も前に予告し、その打開策を種々講じながらも、衰退の道をまっしぐらに走った大阪は、今その時代と同じく、心を一つにした再浮上への努力を開始しつつある。経済5団体の再編と、それに伴う大阪のパワーアップ策もその一つだが、杉さんが事業推進の根底においた「融和」がなかなか図れないのが現状。今こそ「出でよ、杉道助」の秋なのだ。

 安岡正篤著『東洋人物学』に、幕末の志士、真木和泉の一文が引用されている。
「此にいふ才は斡旋の才といふて人事をなす才なり。いかばかり善き人にても、いか程の徳ありても、人として此斡旋の才なきものは世の用にたつことなく無用物なり。たとひ無学にても此斡旋の才あるものは何事にあたりても功をなし用立つなり」
これを引用し、安岡師は次のような解説を加える。
 「斡旋とはどこからくるかというと、これはやはり情からくる、仁からくる、慈悲、愛情からくるのです。人を愛するがゆえに、その人のためによかれしと、いろいろ世話をする、面倒をみる。事を愛するからして、その事のために何くれと取り計らう、それを斡旋という。人間が利己的であると、この斡旋ができない。少々頭が悪くても、少々不細工でも、知だの才だのがなくても、その志、誠、愛情、あるいは徳というものがあれば、斡旋はできる。これはなかなかの才能人、知恵、才覚の人よりずっと世の役に立つ。人の用をなす」
 もちろん杉翁に知も才もなかったわけではない。だだ杉翁ご自身の自己分析の言葉と、安岡師のこの一文が余りにも近くにあり驚かされる。かたや吉田松陰の甥、そして安岡師は松陰を最も尊敬する日本人の1人として研究された方。2人の間に赤き糸が結ばれていたのかも知れない。
 関西・大阪のリーダー達が学ぶべき歴史は、古き時代ではなくとも、つい目の前にあったのだ。

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