第二十回 「忠恕(上)」

忠恕の心が社会の根本
  『素顔の紳士録』より−4−

 『素顔の紳士録』の三十四人の方々を取材して、大きな共通点に気付いた。それは「忠恕」の心である。『新字源』(角川書店)によると、忠恕とは「真心と思いやりの心」とある。
 また『論語』里仁に「夫子の道は忠恕のみ」の言葉がでてくる。「先生の一貫した道とは忠恕、つまり思いやりの道、仁道である」(曾子が、他の門弟に、孔子先生の一貫した道とは何か、と問われて答えた言葉で、忠恕の心が治国の根本である、とする)=諸橋轍次・中国古典名言事典・講談社=

 近畿日本鉄道の田代和会長(大阪商工会議所会頭)は少年期、父君から「恕という徳目を行動の規範にしなさい」という教えを受けて育った。
 生まれは大分県だが、鉱山技師をされていた父君の仕事の関係で、幼年・少年時代を中国の東北部、いわゆる旧満州で過ごす。当時の満州は「五族協和」をスローガンに、新国家建設に燃えた時代であった。
 五つの民族が民族性の違いを超えて協和し、満州国の建国に団結した時代である。もちろん、歴史学者の史的分析は様々だろうが、少なくともその時代、その地域に育った子供たちには「民族を超えた友情が芽生え、その違いを相互に認め合う心の広さを養った」と田代さんはおっしゃる。
 父君が恕の徳目を、と教え、母君がそれを家庭教育の基本にされたそのことが田代さんの心に恕、つまり「思いやりと慈しみ、そして心ゆるやかに相手をゆるす心」を育てた。

 ダイキン工業の井上礼之社長(関西経済同友会前代表幹事・関西経済連合会副会長)は、公私ともに上司であった山田稔同社前会長を師として尊敬する。山田さんから経営観ばかりでなく、人間としての生き方までも学んでいる。
 あえて私(折目)は、その山田さんを通して学んだと表現したいのだが、「座右の銘はとくに持ち合わせていないが、よく口にする好きな言葉は 忠恕 だ」と言われる。
 社内ばかりではない、関西経済同友会のスタッフを中心に「山田学校」なるものが自然に生れ、その薫陶を受けた人たちは社外にも多い。そして私も取材を通じ、いつの間にかその教えに接する一人になっていた。 山田さんをよく知る方から、「山田さんという方はすべてをゆるす人だった」の評を聞いたことがある。そのすべてをゆるすはずの山田さんが、ある私的な小さな会合で、ある人を厳しく叱ったことがある。私もたまたま縁あってその場に連なっていたが、日頃見慣れぬ形相に私自身が驚嘆したものである。
 山田さんの「ゆるす」は単なる「何でも許す」では無く、非常に愛情あふれたものであった。そして私はいまも、山田さんこそ最も忠恕のこころに支えられた方であった思っている。
 山田さんの謦咳に常に接して社会人修行をした井上さんはじめとする門下の方々が、自然に山田さんの忠恕のこころをそれぞれの心に育てていったことは容易に想像できる。
 人事・労務担当が長かった井上さんを後継指名したとき山田さんは、次の三つのポイントを井上さんへのはなむけに申し送っている。
  • 人員整理は絶対しない(それは経営者としての最後の手段だ)。
  • 会社は、縁あって同じ釜の飯を食う人の集まり。
  • 労組との三か条はうそをつかない・約束したことは守る・守れないことは約束しない。
 その経営観にもまた忠恕の精神がみなぎっている。

 今回の紳士録の取材を通じて私自身が、思いやりを感じたのは、国立民族学博物館の初代館長、梅棹忠夫先生だった。その写真集に記したとおり、最初の出会いから先生は、私にとってややおそれ多い存在であった。このため撮影のお願いもかなり遅れてしまったのだが、そんな非礼も意に介せず、たっぷり撮影の時間をいただき、しかも私に、三時間を越えるお話の機会を与えて下さった。
 いまや「世界の知性」と称される先生との会話は魅力に溢れるものだった。しかもそのほとんどを私の目線でお話いただいたのだ。そのエッセイに次のような感想を記している。それこそ、恕のこころそのもののと感じたからだ。
 「つくづく思ったものである。人間は、大きくなればなるほど、相手の目線で話をする。そして、その高さは自在無げであると」

          (折目允亮記者)

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