第十九回 「運命と立命(下)」

失意の中で新たな命を生む
  『素顔の紳士録』より−3−

 人生とはままならぬものである。必ずしも心に抱いた夢が実現するとは限らない。そこで多くの人が「これも運命か」と、その人生に妥協してしまう。
 だがその夢を志にまで高め、しっかりとターゲットとすることで、新たな運命を創る人生も少なくない。『素顔の紳士録』に登場された方々の多くの人生に、そうした積極的で、力強い命を感じ取った。

 今や、世界最大の膜面構造物企業である太陽工業の創業者、能村龍太郎会長の少年時代の夢は画家になることだった。父からの勘当を覚悟でパリ遊学を計画したほどだから、その決意は半端ではなかった。だが、時代がその夢を阻んだ。
 海外渡航が困難になり、そして敗戦。戦後すぐに家庭をもった能村さんの日常生活は絵どころではなくなった。荒涼とした焼け跡の中で、生き抜くための生活が始まる。そして、戦時中の企業統合で廃業状態にあった家業のテント業の再興で、能村さんは活路を見出だす。裸一貫からの再出発であった。
 創業から九年目の昭和三十年、年商が一億円の大台に達した時、能村さんは、「十年後に日本一のテント会社になる」と全社員に宣言する。絵に代わる新しい夢と目標の設定である。
 昭和三十八年、宣言から八年で業界売上トップを達成するが、それも束の間、翌年からまた十年で「世界一のテント会社になる」と再び檄を飛ばす。そして、その目標もまた十年後に実現させるのである。
 前号にも「本当の運命とは、我から立てる立命でなければならない」との雲谷禅師の話を紹介した。能村さんが、少年時代の夢に拘っていたら、新たな運命が能村さんに芽生えることはなかったろう。

 関西経済同友会の萩尾千里常任幹事・事務局長の新聞記者時代の勲章は、八幡製鉄と富士製鉄の合併(新日鐵)をスクープである。だが不運というべきか、実質萩尾記者の特ダネでありながら、在職していた日刊工業新聞社と並行取材をした毎日新聞社の態勢の差もあり、世の中では毎日新聞の特ダネと言われる。
 知る人ぞ知る、とはいいながら、同じ記者としてその無念さは痛いほど理解できる。だが、そこで不運を嘆き、腐っていたら、今日「関西財界の仕掛け人」と評されるこの方の活躍はなかったであろう。
 その後、萩尾記者は朝日新聞に転じ、経済記者として活躍、スクープを連発する。さらにその実績を買われ、四十九歳の若さで現職に迎えられるのである。
 人生にとって何が幸運で何が不運かはわからない。仮にかのスクープが、萩尾記者のみのものであったとしたら、その時には数々の栄誉を得ただろうが、その満足感で終わっていたかもしれない。まず、人生の転機とはならなかったのではなかろうか。
 大スクープを得ながら、結果としてそれを他紙に譲った計りしれない悔しさが新たな命のエネルギーとなって立命、つまりは新しい運命を自ら創り出していったのだ。

 衆議院議員の樽床伸二代議士の高校時代の夢は甲子園に出場することだった。だが不運にも怪我に泣かされ、その夢は断念せざるを得なかった。
 そんな野球少年は一転、学業に精を出して、大阪大学経済学部に入学する。だが人生の目標はまだ定まっていなかった。というより未だ野球への夢を捨て切れずに野球部に入部、練習に明け暮れる。だがそんな樽床さんにまたまた怪我が襲う。二回生の時に、右腕骨折で病院に運ばれる。「よほど運のないヤツ」と自分を嘆いたという。
 だがやはり、人生とはわからないもの。入院先の病院で何気なく目にした新聞に、松下幸之助翁が、「松下政経塾を設立、若い政治家や経済人を育てる」計画が報道されていた。
 それを読んだ瞬間に、閃くものがあった。政治家になろう、と。大阪大学卒業後、彼は迷わずに松下政経塾を受験、ここで三期生としての五年間を過ごす。
 病院のベッドで立てた彼の志は、その後、微動だにしなかった。そして平成元年の衆議院選挙に無所属で出馬。その時は一杯地にまみれるが、三年後の同選挙で当選、夢を果たす。
 現在、三期目、若手政治家として嘱望されるが、不運を幸運に転じさせたのはやはり志であり、我が自ら立てた立命で新たな運命を切り拓いていったのだ。

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