第十回 「宗教心(中)」

画像  仏教に求めた「拠り所」
       −現実見つめる別の目を育てる

 かつてあるベテラン経営者から「若い経営者は余り宗教にのめり込まない方がいい。宗教とは我欲を捨てる教えであり、一方、経営者には強い利潤への欲が必要だから」との教えをいただいたことがある。以来、経営の心と宗教心がどうしたら融和するのかを考え続けてきた。その私に光を射し込んでくれたのは近畿日本鉄道の金森茂一郎前会長だった。

 ある金森さんへのインタビューの時、私は次のような質問をした。
 「日頃、丁々発止の生臭いビジネスを展開している人たちにとって、宗教や東洋思想の神髄を学ぶということは、逆にその人をビジネスから遠ざける結果になるように思えます」と。
 それに対して金森さんは、その質問の前にお話ししてくれた「川」の話で応えてくれた。
 「仏教の世界に彼岸と此岸(しがん)という言葉があります。自分が歩いている道の横に川が流れており、その向こうに仏が悟られた世界がある。それが彼岸であり、自分が立っているこちら側が此岸です。
 その彼岸に向かって歩み、到達するのが仏教家の悲願なのでしょうが、一般人には至難なことです。しかしその途中に橋が架かっており、そこを渡って向こう岸に立ち、そこから此岸で心を悩まし、色々な問題に没頭している自分を、別の自分の目で見ることができる。
 その橋を仏教によって渡らせてもらい、また彼岸の心境、つまり別の目を自分が、仏教の教えを通して得られる」
 最初にいただいたのが、このお話だった。そして「宗教と経営がどう融和するか」の問いに、最初の川のお話に重ねるように、再び応えていただいた。
 「われわれは川の手前側に身を置く人間ですから、こちらで与えられた仕事に精一杯の努力をする。それがまず大事なことです。
また川の抜こう側に行き放しになることは逃避になるわけですから、まずこちら側で一所懸命にやる。
 しかしこちらで一所懸命に頑張るときに、また別の境地でものごとを観察して、また元に戻ってくる。そういうことが必要ではないかと思うのです」
 「ある働きかけが自然に心に染みつくことを薫重(くんじゅう)というのですが、人は薫重されて変わっていく。そうすると別の受け止め方ができる。そういうことを重ねていけばかなりのところにまで到達できる。これが在家信者の姿ではないかと思います」
 人生でも、経営でも、今われわれが求めているのはその「拠り所」だろう。それを失ったがための混迷を私たちははてしなく続けている。金森さんにそのお話をうかがったとき、何やら重苦しい雲の切れ目から光射す感触を得ることができた。
 金森さんのご実家は浄土宗で、とりわけおじいさん、おばあさんが宗教心の篤いお方であったという。
 そのお二人の強い影響で育ち、「お寺にもよく連れて行かれ、そんなことで知らず知らずに仏教に親しむようになった…そして若い時代には誰でも心の支えのようなものを求めるが、私の場合はそれを小さな頃から親しんできた仏教に求めたわけです」
 私もいささか、篤信の親や祖父母の影響で、心に常に仏教を宿してきた。だが一見古めかしいその教えと現実の人生が一致せず、そこに多少の悩みを抱えてきた。金森さんのお話は、そのような悩みを十二分に和らげてくれた。
 決して現実のビジネス生活を否定するものではなく、一度川を渡って彼岸に立つ別の自分の目から、此岸にいる現実の自分を見つめてみては、とのお話である。
 金森さんは今も毎朝、仏壇の前で手を合わせ、般若心経ともう1つの経をあげることを日課にされている。時に訪れるお孫さんが、経を唱えるおじいさんの横にちょっこり座り、読経を聞いているとか。
 仏教界が冠婚葬祭の儀式宗教に成り下がったとも言われる。また多くの生活の中から宗教心が失われてから久しい。そのことと、昨今の経営理念の混迷が無関係ではない、と思うのだが。

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