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■ 豊田さんとの出会い
長い取材生活を通じて、何度か自分の気持ちに気合を入れ、大変な局面を乗り越えたことがあった。その一例を紹介しよう。
私が関西師友協会の豊田良平副会長に最初にお目にかかったのは昭和54年の秋だった。
ある業界新聞の記者として財界取材をしていた30歳代半ばの頃である。
当時、豊田さんは大阪屋證券(現コスモ証券)の専務取締役であった。
新井正明住友生命保険会長(現名誉会長)の取材を通じ、東洋思想の碩学・安岡正篤師に関心を抱いたことは先に記したが、その新井さんが「本当に先生のことを知ろうとするなら、是非話をお聞きしなさい」とご紹介を頂いたお一人が豊田さんであった。
■ 空気はりつめる応接室
数日後私は、豊田さんに取材の了解を頂き、大阪・北浜にある大阪屋證券を訪問する。
新聞記者になって13年目。それぞれの会社に役員を訪ねることは、日常のことであり、その日も、いつもの調子で気軽に出かけ、案内された役員応接室で豊田さんを待った。
間もなく、ドアがノックされ、豊田さんが姿を見せられる。型通りの名刺交換をすませ、ソファーに腰を下ろしたのだか、何か、いつもの取材と感じが違うのである。得体の知れない緊張感が応接室を包んでいるのだ。
その上に、豊田さんの鋭い視線が私の目をとらえて離さない。その気迫にうろたえる私であった。
■ 目を離せば負ける
だがその瞬間、「この視線を外したら負けだ。相手が外すまで、こちらから外すわけにはいかない」との思いが湧いてきた。互いの視線が絡み合う時間が3分であったか、5分であったか、あるいは10分であったか、正確には記憶していない。しかし、ただただ長い数分であった。
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幸いこの真剣勝負(といっても私が意識しただけのことだが)は、お茶を運んでくれた秘書嬢の入室でピリオドをうつ。当然のごとく私は、豊田さんに向けた視線を秘書嬢に移し、お礼の言葉を返したからだ。
ホッとしたあの一瞬の快感は、20年余を経た今も鮮明だ。だが、豊田さんに視線を向けたままでペンを走らせた肝心のメモ帳は、文字が重なり合ったり、形になっていなかったりで読めたものではなかった。
■ 証券界を生き抜いた気魄
いま、その時のお話をすると、豊田さんはただ笑うだけだが、『安岡思想と関西財界人』などという大きなテーマで取材する若造記者を試験してやろうと、思われたのかも知れない。あるいは生き馬の目をも抜くと言われた証券街で生き抜くことは、毎日が真剣勝負。その真剣さが、豊田さんの全身に発散していた故か知れない。
ご本人からは、その解答は未だ得ていないし、今後も教えてはいただけないだろう。それは私自身が出すべき答えであるからだ。おそらく、その両方であったのだろう。
■ にこにこ顔で命がけ
豊田さんは、平成8年に『人生はにこにこ顔で命がけ−喜神と胆識−』という題の冊子を出しておられるが、その一節に「…困難な現実に立ち向かった時、最後のぎりぎりの線は馬力です。気魄・気合の問題です。…仕事の場合も、気力がなければ発言に迫力がなくて、本来通るべきものも通らなくなります。反対に気魄があれば、たいていのことにこちらの主張が通ります。と記しておられる。
豊田さんとの出会いは、私の記者生活の中でも特異な出会いの一つである。だが、相手から発せられる気魄を意識し、それに負けられない、と必死に気合を入れ直した最初の取材であったことは確かである。
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