第五回 「師−B」

 「我以外、皆、師なり」を実感 大阪の精神風土−先輩から後輩へ知恵伝授
 「我以外、皆、師なり」とは、作家吉川英治先生の残された言葉と聞くが、含蓄の深い、至言である。 

■ 現状に満足するな
 私自身の人生を振り返っても、その時々に師に恵まれ、今日があるように思われる。例えば30数年前、大学卒業の年の3月、就職報告に出向いた母校の学生課で、当時、学生寮の世話を担当していたある職員から言葉をもらった。「現状に満足するな。つねに自分の今に、疑問を持って歩め」という内容で、以後私の人生で何度も反復する言葉になる。
 大学の先輩であり、さらに訓示癖のあるその人は、寮の代表として諸事を交渉する時、いささか厄介な存在だったが、どこかで心が通じ、敬愛する先輩でもあった。それにしても、学生課の若き一職員の一言が、ここまで私にまとわり付くとは思わなかった。
 その先輩は今、母校立命館大学の理事長として、大学改革に著しい実績を残しているが、後年、そのことを話すると、「お前にそんなこと言ったかな」と首を傾げていた。
 聞いた本人がしっかり記憶しているのだから間違いない。言葉の出会いとはそんなものであり「我以外、皆、師なり」を実感する出来事である。

■ 常に高きを目指し…
 学生時代の恩師の言葉やその生き方が、その人の人生を貫くケースも多い。
 大阪商工会議所会頭を務めた大西正文大阪ガス相談役にとって、旧制高知高等学校2年生の時のクラス主任教授、塩尻公明先生は人生を通しての師である。
 「先生の真面目で、十分に準備された講義に、私たち学生は感銘を受けた」のだが、卒業を前に、先生宅を訪問、持参した色紙に次の言葉を書いてもらった。
 常に高きを目指し、己を喜ばせ得ることは何一つ為しえない時にも、常に努力を続け、落胆することなく反復を試みよ。
 大西さんの人生は、正しくその言葉通りとお見受けするが、今もその色紙を自宅の書斎に掛け、時々諳じては心の支えにしている。また「若き頃に心から尊敬できる先生に深く接する機会に恵まれたことは私の人生にとってこの上ない幸運であった」と言われる。大商会頭として、「大阪の都市格の向上」を提唱して、その実践に務めたが、その心は、色紙に書かれた「常に高きを目指し…」にあった。
■ 先輩からの知恵の伝授
 偶然の師との出会いもあるが、一方、求めて得た師との出会いもある。
 一代で世界最大の膜面構造物企業を築き上げた太陽工業・能村龍太郎会長の経営者人生は、師を求める旅でもあった。
 終戦直後、一家の生活のために絵の道を断念、テント会社を興した能村さんにとって、経営を学ぶ手段は自己体験と先輩から教えを授かることしかなかった。
 そこで能村さんは、積極的に先輩経営者の胸もとに飛び込み、教えを乞う。小林一三さん、松下幸之助さん、伊藤忠兵衛さん、早川徳治さん、井植歳男さん等々。
 大阪倶楽部で、大阪青年会議所で、日本青年社長会で、と出会いの機会を積極的に活かし切った。井植さんを通じて、その義兄であった松下幸之助翁の「事業を興すときに絶対必要な元ガネの作り方を教えてもらった」。
 伊藤忠兵衛翁の話の中にエントロピーという言葉がよく出てきた。それで「ある日、その意味をお聞きすると『そんなことは自分で勉強せえ』と叱られた」。
 辞書で調べてもなかなか理解できないし、大百科事典まで買って調べたが難しくてわからない。理解するのに1年もかけた。忠兵衛さん流教育法だったのかも知れない。
 その翁から、大恐慌の際に膨大な損をした話も聞かされた。そして伊藤忠商事がその一大危機をどうして乗り越えたかの知恵も授かった。
 今回の平成不況をはじめ幾度かの不況を大過なく乗り越えられたのは「忠兵衛さんのお陰だ」と能村さんは述懐する。その秘策とは常に十分な資産を蓄えておくこと、事業の多角化も本業の核から逸脱しないことに集約される。
 「大阪には、先輩から後輩へ知恵を伝授するという精神風土」があり、その風土に能村さんは飛び込んだのだ。「旧制中学しか出てない私が先端の技術を身に付ける唯一の手段だった」からだが、その師を訪ねる旅は、糸川英夫博士、西堀栄三郎博士へと広がり、現在も続く。
 その能村さんが「近年、先輩の胸に飛び込む若者が少なくなってきましたね」と嘆くのが気掛かりだ。

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