第三回 「師−@」


  恬淡と後進に道を譲る
   −新井正明住友生命名誉会長の実践

■人を師とし
 まずは、江戸時代後期の陽明学者、佐藤一斎が著した『言志録』の一文をご紹介する。
 「太上は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経を師とす」〈最上の人は宇宙の真理を師とし、第二等の人は立派な人を師とし、第三等の人は経典を師とする=川上正光氏訳〉「天を師とする」人とは人生を超越した聖人。あるいはそこに至らぬまでも歴史的に名を残す、人類史上稀に見る、限られた人たちをいうのだろう。
 だから第二等、第三等の人といえど、凡人からすれば学ぶべき多くを持ち、われわれが範とすべき大きな方々であることは間違いない。

■新井さんとの出会い
 30代の半ば、この一斎先生の言葉を地でいく経営者との出会いを得た。住友生命保険の新井正明名誉会長(当時会長)であった。
 その頃新井さんは同社の社長を辞し、代表権のない取締役会長に就任された直後(昭和51年)であった。「住友生命の中興の祖」と評され(ご本人は前社長の芦田泰三氏こそ中興の祖である、と言っておられるが)、その経営的実力や人間性からして、なお社長、“実力会長”として同社の君臨して不思議ない方であった。
 その新井さんが、「私の思いより長くやりすぎた」と社内慰留を振り切り、しかも会長就任にあたっては「代表権を持たないならば」の条件を付けている。
 ちょうどその時代、“実力会長”の存在が経済界で話題になっていた。社長を辞しても、後継者に自分の意を酌む人を選び、実質社内支配を維持する取締役会長を称してのことである。
 実力会長就任に何の支障もない新井さんが、それをあっさり断り、代表権を拒否したばかりか、「後進の経営陣に口を挟むことになる」と、常務会の出席さえ免除してもらっての受諾であった。

■師の教えの実践
 このことが、どうにも理解できなかった私は、ある取材の機会に愚問を発したものである。
 「簡単に決断できるものではないと思います。どなたかに相談されたうえでの辞任ですか」すると、新井さんは笑顔で答えてくれた。

 「いえ、誰にも相談していません。しかし、私が師事する安岡正篤先生の教えを実践しようと思えば、これはごく当然のこと。何も特別なことではありません」権力者の、権力の座から降りる時の悲喜劇は、当時もいつの時代も枚挙にいとまない。時には、「あれだけ立派な人が、何故にこの醜態を?」と首を傾げることも少なくない。
 それまで、多くの師の教えの下で育ったはずの私だったが、その時ほど「師の教え」という言葉に新鮮さを感じたことはなかった。

■安岡正篤師
 安岡正篤師は東洋思想の大家で、吉田茂首相を始め戦後の歴代総理のご指南番として知られる。
 政界・官界・経済界・教育界などの広い分野で、リーダーの啓発、教化に務め、その精神的支柱になった方である。
 経済界にも、師の教えを受ける方々は多く、関西では関西師友協会(会長・新井氏)が安岡教学の普及・教化の組織として活動を続けている。(安岡師の死去後、東京に本部を置いた全国師友協会は解散し、現在関西師友協会だけが存続している)

■ノモンハン事件
 よく知られていることだが、住友生命に入社して間もなく、新井さんは日本軍とソ連軍との間で勃発したノモンハン事件の起きた昭和14年8月、陸軍に一兵卒として参戦し、右足を失っておられる。
 新井さんが、真に安岡師の書物に接するようになったのはこの事件に遭遇してからである。
 「…私は学生時代からすでに先生の著書は読んでおりましたが、…怪我をして再び先生の書かれたものを読み返してみますと、今までと違った輝きを心に与えてくれるのです…」
 「これをきっかけにして安岡先生がお書きになったものを次々に読みました。すると、それまで古典を読んでもそれほど心に響かなかった言葉が息を吹き返したようになってきました」
 最近、出会いのご縁をいただき、再び「経営者新井正明さんにとって、安岡正篤さんとはどのような存在ですか」と聞き返した。
 すると、「すべてです!」という答えが返ってきた。
 師の重みを改めて思い知るのだった。

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