第二回 幸分(こうぶん)
 

「利益の分配が大切」−早川翁の言葉に感銘

■「幸分」のサイン
 シャープの創業者、早川徳次翁にいただいた1冊の本がある。お元気な頃に「大阪新聞」に連載した『私の考え方』150編から130編を抜き出し同じ題で出版したものである。
 その表紙裏に、翁に一言を書いていただいた。そこには、決してお上手とは言えないが、丁寧に書かれた「幸分」の二文字が光っていた。「幸せを分かちあう」という意味であろう。
 いただいたその本の発行日が昭和48年10月とあるから、その年の暮れか、翌年の春だったかもしれない。いずれにしても、翁の80歳頃のことだ(翁は明治26年生まれ)。
 当時勤めていた業界紙で機械業界を担当し、関西家電御三家の1社、シャープを取材していたが、会社を知るには創業者を知らねばと思い、その前に出版されていた『私と事業』を手に入れ、まずその著書から創業者に触れていた。
 その本で始めて知った早川徳次会長は、あまりにも魅力的な方であった。
 そこで当時の広報部長萩原大朔氏に頼み、ようように早川会長取材の了解を得た。
 『幸分』のサインをいただいたのはその初取材の時だった。

■松下翁を工場に案内
 早川翁については幾つか紹介したい逸話が残っている。いずれこのシリーズで書かせていただくが、まず今回は「幸分」について書かせていただく。
 この取材で、「幸分」に関連する話が出たのは、同社が国産第1号の鉱石ラジオ・セットを開発(大正13年)した話に及んでからである。その製作を開始した直後、松下電器産業の松下幸之助社長が同社に早川翁を訪ねてきた。
 松下翁ももちろん創業者で、早川翁より1歳下。ともに義務教育さえ受けられない(早川翁は「一応小学校は卒業したがね」と言っておられた)貧しい幼年・少年期を経ての創業で、同士的な心の通いを感じたのかもしれない。早川翁は、松下翁を快く迎え、自らが工場を案内して回ったのだという。

■井植翁にも再び
 私は驚き、「同業者に工場をみせるというのは、手の内をすべて見せるということでしょう。何故?」と問い直した。
 すると「井植君(三洋電機の創業者、歳男氏)にもね、国産第1号の白黒テレビの製造を開始(昭和27年)したあと、彼が私を訪ねてきたので、また工場を案内して回ったのだよ」と、けろっとした顔で言うのである。
■独り占めの成果は小さいよ
 昭和40年代の後半といえば、オイルショック(昭和48年)を挟みつつ、各企業が熾烈な競争を展開する時代で、企業スパイの横行も珍しくなかった。それだけに、この時代の感覚では耳を疑う話なのだが、紛れもない事実なのだ。
 そして、驚く私を諭すように翁は語り出した。
 幸せの独り占めはいけないし、また成果も結局は小さいよ。ラジオの時も、白黒テレビの時も、製造技術を隠して、うちだけが生産すれば一時は儲かったかもしれない。しかしうち1社では世の中に出しても、なかなか普及しない。それを皆で作れば、何倍も早く人々がラジオを聞き、テレビを見ることができる。
 その方が世の中の幸せにつながるし、普及も早い」またこうも言う。
 「仮にうちが独占して、100%のシェアを得たとしても、皆で競争をしてそのうちの10%か20%でもうちで売り上げる方が、結局取り分が大きくなる」

■五つの分配
 早川翁とて利益を否定するものではない。「事業の第1の条件は適正な利潤をあげること」と言っておられた。だが、「その利益を今度はどういう風に人に分けるかが大切なのだ」の一言が付加される。
 @社員への分配 A株主への分配 B仕入先への分配 C販売店への分配 D社会への分配、の「五つの分配」をその時に言っておられたが、自ら開発した技術でもそれを独占することは、社会への分配に反することなのだ。
 それを協調したかったのだろう。

■人生観の根底に
 翁の「幸分」の人生観は、決してキャッチフレーズとしてのものではなかった。東京で、19歳で独立してシャープペンシルの製造会社を興し、事業に成功しながら関東大震災でその全財産ばかりか、最愛の妻子を奪われる。そんな人生のどん底で大阪にわたり、そこで再び再起、今日のシャープの礎を築いた翁である。
 そんな人生を歩んだ人ならではの、心から幸福を分かちあう人生を、その言葉に重く感じたものである。

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