第三十九回 建前と現実

医療の出発点は患者の訴えに耳を傾けること


(イラスト:Yurie Okada)

 東京電力による原子炉点検記録の改ざん問題に関して、原子炉の設計に長年携わってきた技術者は「原子炉の運転を続けると、部品に様々な傷や裂け目が出来るのは当たり前だが、建前は一切傷があってはならないことになっている。社会の要求と実際の間に落差がある」と打ち明けている。
 どんな小さな傷もあってはならないという基準が、実態に合っていない。それが現場の職員に大きなプレッシャーになっている。修理すべきは修理し、交換すべきは交換し、そのまま使い続けて問題のないものは使い続ける、ということができていれば、隠蔽する必要はなかっただろうと述懐していた。

 診療にも一切間違いがあってはならないことになっており、医療事故防止マニュアルを作れ、防止対策会議を開け、指示通り実施しその記録を残しておかねば診療報酬を減額するぞと、まあ実に高圧的に様々な通達が行政当局から下されてくる昨今だ。
 医療の出発点は、出来るだけ多くの時間を割いて患者や家族の訴えに耳を傾けることであり、それが医療事故防止にもつながる最重要点であると思うが、最近の医師・看護婦たちはカルテを書き、書類作り、会議に多くの時間を割かねばならず、肝心要の医療・看護業務がおろそかになっている。カルテ開示を義務づけるなどという動きもあり、物書きの時間は増える一方だ。
 しかもその記録たるや医療訴訟に耐えられるようにと、必ずしも実態を伝えない作文的なものになりかねない危うさをはらんでいる。官僚と違い、我々の仕事は保身のための書類づくりではない筈なのに。

 国民に良質で高度の医療を提供しようとの、高い理想に燃えるべき官僚たちの善意を信じたいが、現場を知らない人達だなとしばしば幻滅を感じさせられる。建前論に基づいた観念的政策が、真に患者やその家族に満足感をもたらし、医療従事者に充実感を与えているかをしっかりと検証してほしい。
 現実との乖離が著しい建前主義の法律を作り、運用段階でそのギャップを埋めるために不正な運営・管理を余儀なくされる場面は、原子力行政、医療行政その他あらゆる分野に認められる。その最たるものは日本国憲法だ。自衛隊という立派な軍隊を擁しながら、憲法との整合性を持たせるために何と無理無体な解釈を重ねてきたことか。

 現実に守れないことが分かり切っている法律などは、憲法たりとも現実に合わせて改正すべきものだ。憲法解釈に象徴される言行不一致は、心理の深層において国民の道徳観念を破壊する。既に破壊はかなり深刻であるように小生には感じられる。

 これもその一例だが、以前から北海道の医者の間では問題にされているものの、公然とは議論されない問題に、診療患者数に対する法定医師数なるものがある。
 これなどは北海道の辺地では守り得ないのが現実だが、欠員があってはならないのが建前であり、そこに名義貸しという、先日来札幌医大を標的にして糾弾的に報道されてきた問題の根元がある。

 風邪、捻挫・骨折、胃炎・腸炎のような日常的な病気を扱うプライマリーケアと、脳外科や胸部外科その他の高度の専門医療とを同じ基準で縛るなんて無茶な話しだが、医療法では建前上そうなっているのだ。
 法定医師数を、プライマリーケアと高度専門医療の別や地域の実情に基づいて傾斜配分すれば、日本の病院医療の貧弱なマンパワーを少しは改善させることが出来、医療事故の防止にもつながると思うのだが…。

 医者が増えれば必ず医療費は増えることになっている。少ないスタッフで頑張っている僻地勤務の医者には、教師と同じように僻地手当のような特別報酬を与えてでも頑張り続けてもらい、またそれが若い医者が田舎に固定する呼び水にでもなれば一石二鳥だが、現実には逆のやり方がされている。

 医者の数が足りない罰則として診療報酬が減額されるのだ。これでは夢を持って田舎で働く医者は居なくなる。 建前主義を止め、現実に即した議論をして、法の運用にも一定の「アソビ」を認める効率的で活気ある社会を作りたいものだ。

    【関西ジャーナル
2002年10月25日号掲載
  

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