第三十一回 生き抜く力と希望

足ることを知る
生活水準を落としアジアと共生を


(イラスト:Yurie Okada)


 今年も残すところ僅かとなってしまった。暗いニュースの多い1年だった。日本も世界も今しばらくは先行き不透明の闇の中を進むしか道は無いようだ。個人的には忙しさに埋没してしまい、朗らかに平静に生きるために必要な、瞑想の時間が取れなかったなと反省している。

 "ぼろは着てても心は錦"半世紀以上前アメリカ相手の無謀な戦争に敗れ、焦土と化した日本の復興期には、この心意気が多くの人の生き方を支えていたと思う。極貧の中にある種の希望があった。現在の日本に欠けているのは、財政赤字を解消するための金子ではない。多少生活水準を落としても、アジアの人々と、そして世界の人々との経済格差を縮め、共に希望を持って生きようとする意欲ではないかと思う。

 たとえ一抹の希望でも、希望を失わなかった人は、あの地獄のナチス・ユダヤ人収容所からさえ生還できたと、後に体験者が書き残している。
 家計のレベルで考えても一度上げた生活水準を落とすのは至難の業だ。しかしこれを実行する覚悟がなければ、再起もできず、希望も湧いてこない。日本の経済がデフレスパイラルに陥って、このままでは奈落の底に突き落とされると深刻になることも構造改革を促すためには必要かも知れないが、それだけでは希望を失って自殺者が多くなるだけだ。

 現に中年労働者の自殺者が急増しているという。生活水準を落とすと言っても、何も敗戦直後の状態に戻るわけではない。精々20年前に戻るだけと考えれば、随分と余裕が感じられるではないか。それでも現在の中国やその他の途上国から見れば羨むばかりの生活のはずだ。

 日本経済がここまで低迷してしまったのは、安い賃金でよく働き、しかもその質を高めた中国労働者の出現がその根本原因だと識者は言う。小生などは、中国の人々につい、貧乏でも夢多く、それなりに充実していた自分の少年時代を重ねてしまう。国際政治の裏側では想像もつかない国家間の駆け引きが絶えず行われており、我々庶民の日常的感覚などは何の力も持ち得ないが、戦争やら何やらとてつもない惨事を経てふと平常心に戻ってみると、結局庶民の知恵が希望を産み出してゆくのではないか。

 日本と中国や東南アジアの人々の生活レベルの格差を無くすために、右肩上がりの経済に慣れきった我々の意識を180度転換すれば、きっと新たな展望が開けてくるに違いない。足ることを知らねばただ欲望の奴隷となって、不満だらけの人生で終わってしまうのは必定だ。

    【関西ジャーナル
2002年1月1日号掲載
  

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