第十八回 臓器移植に思う

寄付に頼る手術は問題
倫理面や経済面を含めて社会的合意を確立すべき


 北海道ではつい先日初めて合法的脳死患者からの臓器摘出が行われ、肝臓と腎臓がそれぞれ移植希望登録患者に移植された。臓器移植が徐々に普及しつつあるように見えるが、他人の死を待つこの医療にはまだまだ多くの問題が残されている。
(イラスト:Yurie Okada)

 現在の臓器移植法では子供の脳死は認められておらず、国内では脳死患者から子供への臓器移植は事実上不可能である。これを国内でも出来るようにしてほしいと、海外での移植を余儀なくされる人たちが厚生省に陳情している。何年か前から、寄付金を集めて海外で移植手術を受ける人たちのことが時々美談風に報道されてきた。

 臓器移植手術によって元気になり社会復帰できた人もかなり出てきているのは確かで、移植手術以外に治す方法がない病気を持つ子の親たちが、自分の子供も何とか元気にしてやりたいという気持ちは痛いほどよく分かる。一方寄付金で手術を受けたものの、その後長期に亘り必要となる免疫抑制剤にかかる費用の負担が大きく、窮地に追い込まれるケースも少なくないようだ。

 以前にも書いたことがあるが、この種の実験的先端医療にかかる費用負担の問題をしっかり議論をすることもなく、その場その場でお涙ちょうだい式の寄付金集めをして手術を受けさせるのは非常に問題があると思う。

 アメリカという国の医療は、金さえ出せば何でも有りの医療で、聞くところによると,乳癌遺伝子を有していると診断された女性の求めに応じて唯々諾々と両方の乳房を切断してしまう医師さえいるという。

 臓器移植も金さえ出せば、そして臓器の調達さえ出来れば何時でも請け負ってくれるようだ。不足する臓器を供給する暗黒のルートが存在することも今や公然の秘密である。
 少子化に伴って、授かったたった一人の子供を何が何でも死なせるわけにはいかないという親の気持ちが分からないわけではない。しかし、こんな金のかかる特別の医療を、公的な補助でやってくれるのが当然などと思わないでほしい。
 また臓器移植を受けたところで、その子が全く健康な人間に生まれ変わることではないことも忘れないでほしい。子供への脳死臓器移植が国内で法的に認められることには異存はないが、その費用を従来の医療保険で賄うことには反対だ。

 人の命は金に代えられないとか、命は地球より重いなどと安易に表現されるが、現実にはお金の有無が命を左右するのだ。どこまで助けるかについては倫理面や経済面を含めあらゆる面から検討を重ね社会的合意を得る必要がある。
 もう一つ、いつも違和感があるのは、命の尊さを心に刻み込むことが大切、などという言葉を事あるたびに聞かされることだ。医療を論じるときも、教育を論じるときもよくこの言葉が出てくる。こんなに軽々しく命の尊さなどと言われると、心底命の尊さなど感じ取っていないことがよく分かる。

 遺伝子治療やクローン技術などの進歩により、ごく最近では元の人間と全く同じ遺伝子を持つコピー人間の出現も現実問題になってきた、スイスのある宗教団体ではこれにより真に永遠の命を得るなどと主張している(執筆時)。将来臓器移植の必要な病気になった時に備えて、自分のコピーを作っておこうとする人間も出てくるのは目に見えている。

 命に対する愛おしさは儚いものであるが故に生じるものだ。臓器をとっかえひっかえして生かされる命に、真の愛おしさなど生じるはずがない、と思う。永遠に生きられるようになれば、益々命を粗末にするようになるだけだ。こういう小生の感じ方が古すぎるのだろうか…。

 21世紀には新しい生命観が生まれてくるのだろうか…。ドイツでの調査によると,若い世代の半数以上は臓器を単なる部品としか見ていないそうだ。どうせ小生は長くてあと20年か30年の命だろうから、どんな生命観が広まろうと関係はない。しかし生きている間だけは、儚さと美しさが表裏一体であることを理解する人が周りに居てほしい。一人でも二人でもいいから。

    【関西ジャーナル
2000年11月25日号掲載
  

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