第四回 見かけの健康 真の健康 日本の健康を再考する
インドと日本どちらが健康? 物質と精神の中間が理想

 この春、ほんの数日だが北部インドの2、3の都市を見て歩く機会があった。
 最初の晩はニューデリーの中心部のホテルに泊った。翌朝ホテルの近くを散歩して、初めてインドの庶民を間近に見た。公園では大勢の子供たちがクリケットに興じていた。インドはまだ、日本が敗戦後に味わったような貧困の中に置かれているように見受けられたが、子供達の目の輝き、そして人々の人懐こさに感動した。
 現代日本の、特に都会の人々の目つきの悪さ、活きの悪さを思い浮かべ、人がいきいきするためには貧困である必要があるのかとさえ思った。数値で表わされる健康状態は、確かに現代日本の方がはるかに上であろうが、健康の概念を再考する必要があるのではないかと思った。

 健康とは単に体の寸法・重量が標準以上になることではないし、また単に病気をしないで長生きすることではない。「一病息災」の言葉もあるように、多少具合の悪い所があっても、限られたこの人生を充実した気持ちで生き抜くことができれば健康であったと言えるのではないか。
 「健全なる肉体に健全なる心が宿る」という諺があるが、誤解されてはいないだろうか。健全なる肉体に健全なる心が宿れば理想的だという意味、と小生は理解しているが…。現代の世相を見ると、どうも立派な肉体を持っているばかりに良からぬことに関わる人も多いようだ。

 国民全体の平均的健康状態を向上させることを目的として仕事をしている政策立案者にとっては、数値で表わされる健康指標はもちろん欠かすことが出来ない必須のものだ。様々の健康関連統計が数多く出されているが、国民の健康状態を最も総合的に表わすものが乳児死亡率と平均余命と呼ばれるものであろう。
 その両方とも世界最高水準になってしまった現在、問われるべきは、その内容だ。WHO(世界保健機構)保健大憲章の前文には、健康とは「身体的・精神的及び社会的に完全な幸福の一つの状態をいうのであって、決して単に病気や障害の無いことを意味するのではない」と定義されている。もちろんこれは努力目標であって、この定義に厳密に合致する健康人を探してみても現在の地球上には見つからないだろう。
(イラスト:Yurie Okada)

 これは1948年に制定されたものであるが、昨年からこれらの健康の条件に従来の「精神的」より更に深い意味あいを持つ「魂」を加えようと検討がなされている。生きる意味とか生き甲斐を考慮しない健康政策や健康教育を変更せざるを得ない事態が世界中に起こってきているということであろう。

 つまるところ、バランスが大切なのだと思う。現代日本は、身体的にはほぼ満足すべき状態にあると言えるが、どうも精神的健康、社会的健康の面では多くの問題を抱え込んでしまったようだ。子育ての方法を知らない若い母親たち、我慢することのできない子供たち、学級崩壊で悩む教師たち、過労死する労働者たち…枚挙に暇がないほど、実に不健康な風景に満ち満ちている。

 日本の物質文明とインドの精神文明の中間に人間の幸福があるのではないかと思った。

    【関西ジャーナル
1999年7月25日号掲載

  

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