五十五回(最終回) 「出会い-7」

信心とは感謝する心
―藤谷秀道師とのご縁(下)―

「現代に生きる人間学」は、『関西ジャーナル』紙2003(平成15)年2月5日号掲載の第54回が故・折目允亮の絶筆となりました。このままでは故人もさぞかし心残りだろうと考え、残された素稿を基に、できるだけ故人の気持に添う形で完結編を書かせて頂きました。
(川嶋みほ子)

 藤谷秀道師と私の出会いはわずか3年余で終止符を打つ。昭和58年、誰もが予想だにしなかった交通禍で90歳の人生を終え、浄土へ旅立たれたからである。だが私は、人と人との出会いは、決して時間の長短で濃淡を測ることは出来ない、一時の縁が百年の付き合いに勝ることさえあると実感していた。

 わずか3年余とはいえ、私が師から頂いたものはあまりにも大きい。私は藤谷先生を師と仰ぐ多くの同志の中で末席を汚していたに過ぎない。だがお別れしてから20年の歳月を経てもなお、最も大切な"わが師"という思いが強い。

 包み込むように話される方であった。常光寺でのある法話後の懇親の席で、佐々木英彰さんから藤谷師との面授(一対一で教えを授かること)の機会を頂いたことがあった。

 「藤谷先生の前の席につきなさい」と言われ指示通り着座したのだが、信心もないに等しく、浄土真宗についての知識もやはりないに等しい。何を問い掛けるべきか冷や汗の出る思いだったが、何かを言葉にしなければ…。発した質問は幼稚なものだったが、それに対する師の答えが、私の心に深く飛び込んだ。

 「信心という心境にはとても到達できません。ただこれまでの人生を振り返ると、両親はもとより、周りの人たち、さらには故郷に聳える山々、そして清らかな川の流れ、幼児の頃からいつも一緒だった犬や馬…、その全てが私の人格形成を支えてくれていると思うと、山にも川にも、そして犬にも馬にも感謝したくなります」

 「そうなんだ!それでいいんだ。信心とは感謝する心なんだ。決して難しいものではないのだ」

 それぞれの立場、信心の深さに合わせて言葉を用意される師だった。京都でのある法話会で、70歳ぐらいの女性が尋ねた。

 「先生のお話をお伺いする度に心が洗われ、清々しい気持になって帰途につく。なのに家に戻ると、またいつもの自分が出てきて、嫁とぶつかったり暗い気持になる。やはり私は信心が足りないのでしょうか」

 「それでいいんだよ。人間なんだもの。でも、今日もあなたは私の話を聞きに来て、心が洗われたと言ってくれた。その気持はあなたの心から決して無くならない。たとえ暗い気持に陥っても、今日のような気持に戻るため、また法話を聞きに来る。二つの心が行ったり来たりする、それが人間なんだ。信心というのは一瞬なんだ。一瞬だからこそ、信心は永遠なんだ」
 私は歎異抄の10章までを丸暗記し、就寝前に寝床で反復するのを日課にしているが、そのきっかけは佐々木さんの一言だった。

 「本当に歎異抄のことを勉強しようと思うなら、せめて10章までは暗記するぐらいにならないとな…」

 後日談だが、佐々木さんは私がまさか本気でチャレンジするとは思わず、軽い気持で言ったそうだが、これも縁というものだろう。


御堂筋を歩く在りし日の筆者


 青年期の私はマルクスとサルトルに傾倒していた。だが20代半ばで親鸞の世界を知り、藤谷秀道師との縁を得て、親鸞聖人、そして歎異抄にたどり着く。しかし師とのご縁がなかったとすれば、今なお諸々の文化人が展開する親鸞論を行ったり来たり、回遊していただろう。その意味で、一人の師との出会いは、百冊の書物を上回る影響力のあることを実感させられた。

 江戸時代後期の陽明学者佐藤一斎は、『言志録』に次のように記している。

 「太上は天を師とし、その次は人を師とし、その次は経を師とす」(最上の人は宇宙の真理を師とし、第二等の人は立派な人を師とし、第三等の人は経典を師とする=川上正光氏訳)

 私は今、心の機軸をしっかりと親鸞聖人に置き、そして、30数年にわたる取材活動を通じて得ることの出来た、数々の素晴らしい出会いと貴重な教えを糧に、終わりなき心の旅を続けている。 

=完=

ご意見・ご感想をお待ち申し上げております