五十二回 「出会い-4」

小さな出会いから大きな縁が
―畏兄・繁治照男氏との出会い―


『関西ジャーナル』紙の題字
 人と人との出会いほど不思議なものはない。一期一会、どれほど大きな印象を残そうとも、たった1度の出会いで終わるものもあれば、本人同士の意思を超えて、一生を共にするまでに広がる出会いもある。
 「袖すりあうも他生の縁」。一つひとつの出会いに感謝し、真摯にその縁を受け止めるのが出会いの鉄則であり、処世でもあるのだろう。
 そして私と繁治照男日本ブレーンセンター社長との小さな出会いからも、私の理解をはるかに超える大きな縁を贈られることになる。

 今は、アメリカ村の一角を占める大阪・ミナミの片隅に、小さなスナックがあった。そこに時々顔を出す学生時代の友人に誘われ、いつの間にか私もその店の常連の一人になっていた。
 友人は当時、特許事務所を開設したばかりの新進気鋭の弁理士だったが、その店の客にはデザイナーとかディレクターなど、"カタカナ族"が多かった。
 当時、業界新聞の記者だった私と言えば、その交友は主に企業人に限られ、いわゆる自由人と呼ばれるその人たちが私には魅力だった。グラフィックデザイナーで、デザイン事務所・日本ブレーンセンターを経営する繁治照男さんもやはりその店の常連で、しかも最も魅力的な一人だった。

 長身、チョビ髭を貯えたその風貌は、サックス奏者の渡辺貞夫さんに似ていて何故か存在感があった。一人で来ることが多いが、常連の仲間たちとの会話がはずむと、いつの間にかそのナベサダが議論の中心にいた。とにかく私には、大いに気になる存在であった。

 ある時、たまたまこの気になる存在と隣り合わせになる。グラフィックデザイナーのママさんと芸術系大学の女子学生が一人いるだけのお店である。客同士が仲良くならないと、とても時間が持たない。見知らぬ客同士が、初めてここで言葉を交わすのは、この店では日常的光景なのだ。
 この時、繁治さんとどんな話をしたのか、全く記憶にない。だが、さんざん議論したあげく、コテンパンに敗れ去ったことだけは確かであり、何度かそんなことを繰り返した。

 オフィスのレイアウトや雰囲気を見れば、言っていることがどこまで本当か、ある程度はわかるだろうと、道頓堀の近くにあった繁治さんの事務所に乗り込んだこともあった。
 知行合一、言葉通りの事務所を拝見して脱帽、即座に兄事することになる。
 以来、そのスナックで繁治さんに会い、心地よい議論を重ねた夜は、得した気分に浸ったものである。
 出会いから2、3年後に関西ジャーナル社を創業することになり、様々な相談にも乗ってもらった。弊紙『関西ジャーナル』の題字のデザインは、その繁治さんから創業祝いに贈られたものだ。それを掲げて、間もなくまる23年が経とうとしている。

 また紙面作りについて「経済紙というと、そこに登場する人物は、中年以上の男ばっかり。これからの時代、女性を無視した経済も経営もあり得ない」と、女性が頻繁に紙面に登場する紙面作りを提案してくれたのも繁治さんだった。
 その考えには私も同感だったが、残念ながら当時の私の周辺には、経済紙に出てくれそうな女性は一人もいなかった。そこでついつい「繁治さんの周りに誰かおられませんか」と甘えたものである。
 「ファッションデザイナーのコシノヒロコさんだったら仲間だから、いつでも紹介できるがね…」

 賢明な読者諸氏にはすでにおわかりだろう。コシノヒロコさんと私の出会いはこうして演出されていく。あの小さなスナックでの、繁治さんとの出会いがなければ恐らく結ぶことの無かった縁である。

 もちろんコシノさんには創刊早々の『関西ジャーナル』にも登場いただいた。そしてその私が、コシノさんと能村龍太郎太陽工業会長との出会いを演出、弊紙で何度も記事とした御堂筋フェア82における『コシノ3姉妹ジョイントコレクション』や『大阪コレクション』発足のきっかけを作っていくことになる。

 場末の(?)の小さなスナックで生まれた繁治さんとのちょっとした出会いが、当人たちの意思に関係なく自己増殖し、コシノ3姉妹のジョイントショーを生みだし、そして今年で17年目となる『大阪コレクション』を創り出していく。

 まさに縁は異なもの、出会いに感謝を、である。

=この項おわり=

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