四十四回 「人物論-16」

山田経営の根幹支えた「忠恕」の心
― 山田稔氏に見る指導者像(下-1)―



山田稔さんの書
 山田稔元ダイキン工業社長・会長(故人)の経営者としての素顔に接したく、久々に秘書課長として仕えたある幹部社員と会った。彼は常々、「私のサラリーマン人生は、山田社長という素晴らしい方に出会えたということだけで、本当に幸せだったと感謝している」と言って憚らない"山田信奉者"の一人である。

 仕えた部下に、それだけの思いを抱かせる経営者。それだけで山田さんの人柄が伝わってくるが、その彼に私は聞いた。
 「あの懐の広さは先天的な資質だろうか、それとも自らを養ってできあがったものだろうか」と。
 答は早かった。「先天的なものも少しはあるかも知れません。しかし、経営者としていろんな現場に立ってご苦労され、苦境もくぐり抜けてこられた。それらの体験から学んだ後天的なものだと思います」と。
 『山田稔追想集』に山田語録欄があり、その中に
「私の現在の考え方や根性のようなものは、ほとんどすべて会社における仕事との対決から生まれたような気がする」の述懐が紹介されている。
 経営者・山田稔さんを一言で表現することは簡単でない。だがあえて、勇気を持ってそれに挑戦するなら、「忠恕」と「胆識」の経営者であったろうと、私は思っている。

 山田さんは、昭和21年1月、ダイキン工業(当時大阪金属工業)に入社している。創業者の御曹司、誰が見ても、一気に階段をのぼり詰め、トップの座に就くものと予想する。確かに、結果はその通りになった。だが実際は、そんな甘いものではなかった。
入社後間もなく、GHQから連続受注していた電気冷蔵庫の全面打ち切りなどで、経営は一気に危機に見舞われ、波状的な人員整理を迫られる。そして昭和27年、住友金属工業のテコ入れで、どうにかこの危機を脱し、再建軌道に乗せるのだ。

 その間、人員整理や経営再建策で、つねに労組や住金との交渉最前線に立たされたのは、他でもない御曹司・稔さんだった。しかも父であり、社長であった晁さんからは、住金傘下入りに際し、「これで、お前が社長になる芽はなくなるかもしれない」との引導さえ渡されるのだ。
 だから、それを承知で"ダイキン人生"にすべてをかけた山田さんと、一般的な2代目社長との違いを明確にしておかねば、「経営者・山田さん」は理解できないだろう。

 昭和47年のオイルショック当時、私はたまたま機械業界を担当、同社も取材先の一社だった。あの頃、危機に陥った業界各社では、「一時帰休」という名の人員整理が、当然のように実施されていた。だがダイキン工業は、「会社が存続する限り、当社が人員整理をすることはない」という新社長(その前年に社長就任)方針に基づき、一時帰休も、希望退職も募らなかった。そして当然生じる余剰人員は、新設した販売会社に吸収したのだ。

 当時は、その方針を称えつつも、そのことで山田新社長の心までは覗けなかった。その後、多少とも謦咳に接するようになり、その話を聞いた。
 「20代で取締役になったばかりだったが、私が担当責任者として、多くの社員の首を切らざるを得ない時があった。苦しい選択だったが、あの時は、心を鬼にするしかなかった。そして、もう2度とこんな選択はしないと自分に誓った」
 同社は、昭和23年から25年にかけて、3次にわたる人員整理を実施した。そしてその経営側の全面に立ったのが山田さんだったのだ。

 『山田稔追想録』に載る山田稔語録を読むと、「ダイキンはダイキンに惚れた人間のもの」「同じ釜の飯を食う仲間」「縁あって集まった人の集団」「人間関係のベースは相手に対する思いやり」等々、"人"への思いを語る内容が非常に多い。
 また、山田さんが好んで色紙に書かれたのは「人生は(人間は)考え方で変る」という言葉だった。そしてその山田さんが、自らを大きく変えられたのは、取締役時代に体験したこの人員整理という苦渋の選択だったのだろう。そして、その苦しい体験から学び、身につけられたのは『忠恕』の心ではなかったろうか。「夫士の道は忠恕のみ」、つまり思いやりだという。山田経営の根幹にこれがあった。

=つづく=


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