第三十八回 「人物論-10」

明治の気骨と大正ロマンを心に 里井達三良氏にみる指導者像(中)



1981年7月『夕映えの道』出版パーティ
 昭和45年3月、里井達三良元専務理事の退任以来、大阪商工会議所の生え抜き組がこのポストに就いたことはない。官庁の天下りポストに組み込まれてしまったからだ。また、戦後の在阪経済五団体事務局トップの中で里井さんほど高い評価を得た人もいない。紛れもなく里井さんは「ミスター・大商」であり、大商の顔のお一人だった。

 前回に記したように里井さんは経営者ではない。だが疑いなく大阪経済の将来に警鐘を鳴らし続けた経済人であり、根っからの自由人、文化人であり、そして国際人であった。若き時代の里井さんを知るキーワードがある。ある取材で、戦前の「またも負けたか八連隊」と愚弄された大阪の歩兵第八連隊のことに話が及んだ時、里井さんは即座にこれを否定された。

 「大阪人は、命を無意味に捨てることを拒否しただけ。お国のために死ねと言われても、むだな死は選ばぬ"精神の自由"さがその根底にあった」
 激しい魂もあった。当時里井さんは満鉄調査部と並び称された全盛期の大商調査部に勤務していた。時代は"鬼畜英米"ムードで、英語は敵国語として使用を禁じられた。しかし里井さんは「相手がわからずに戦争に勝てるものか」と抵抗する。そして秘かに英語を学ぶのだが、その行動は全て特高警察に筒抜けになり、危ない橋を渡り続けた。当時、同部に勤め、里井さんと同じ橋を渡った同僚・竹中寛次さんの証言である。だから決して「絹のハンカチ」の人ではなく、自ら信じたことに激しく魂を燃やす「信念の人」であった。

 全国の経済団体の中で「文化」という言葉を組織の中に受け入れた第一号は大阪商工会議所である。しかも後年になってもその例は数少ない。各商工会議所は「商工会議所法」に基づき、部会設置が義務付けられる。ほとんどは繊維・機械・鉄鋼・貿易…のように業種別に編成され、大商もまたそれによった。ただ一つだけいずれにも属さない「生活文化部会」(昭和26年)が作られ、さらにそれが同29年には「文化部会」へと衣替えする。空腹を満たすことが全てに優先した時代である。当時の経済人には違和感を持って受け止められた。

 それを仕掛けたのは、専務理事代行の里井さんだった。その時の心中を窺うすべは最早ないが、「文化を無視した経済の発展はない」という考えがその根底にあったのだろう。里井さんは当時の杉道助会頭を口説き、文化に理解のある数少ない議員の一人、浅田敏章大阪スタヂアム社長に働きかけ、ついにその案を通す。そして初代部会長に浅田氏が就任する。ともすれば商売一筋、儲け一色の経済人が多い大阪の商工会議所に、当時の感覚では「わけのわからない文化部会」が発足したのだから、これは画期的な出来事だった。

 第二期工事が進みつつある関西国際空港にも里井さんの夢と情熱がたっぷりと染み込んでいる。手狭で、拡張余地のない大阪国際空港(伊丹)に変わる新しい国際空港の必要性が論議されだしたのは早い。大阪万博のために伊丹空港の最後の拡張工事が進む昭和四十年代始めには新国際空港の建設推進運動がスタートしている。中でも杉、小田原大造両会頭の下で伊丹空港の国際空港化、さらにその後の拡張工事に携わった里井さんは、建設推進派の急先鋒であった。
 
 「万博の開催を契機に大阪の国際化は加速される。手狭な伊丹空港では到底その時代に対応できず、新空港が絶対必要になる」というのが里井さんの考えだった。しかしその主張はなかなか一般には受け入れられず、また大阪・神戸の我田引水的な綱引きも、ことを混乱させる一因になった。その上、この頃から激しくなってきた環境保全の動きが空港建設運動に大きな足かせとなり、新空港建設推進の動きは先行きの視界ゼロ、風前の灯火状態にまで追い込まれた。

 そんな状況の中で大阪科学技術センターを拠点に"空港野郎"が結集、孤軍奮闘、粘り強い調査研究活動を続けていた。その頂点にあったのが、大商専務理事を退任、関西国際空港ビルディング社長に就任していた里井さんだった。今振り返ってもあの頃は「新空港の鬼」に化していた。先に里井さんを「信念の人」と表現したが、ここでも里井さんは「ミスター新空港」のニックネームを贈られることになる。明治の気骨と大正のロマンを合わせ持つ里井さんであった。
 

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