十一回 「人物論-4」

「聖人の道は人情のみ」(呻吟語)

佐治敬三氏にみる指導者像(中)

佐治敬三サントリー元会長(故人・元大阪商工会議所会頭)が「信義に裏付けられた情の人」であることは前回触れた。私自身、本当にそのような方だったとの想いを強くしている。

 佐治さんの友情は、一旦その絆を結んだあとは、肉親の情に勝るとも劣らない篤いものだった。佐治さんにとって、その晩年の痛ましい出来事は、そうした固い絆で結ばれた親友に次々に先立たれたことだった。当然、その葬儀では佐治さんが友人を代表して弔辞を述べられるのだが、悲しみのあまり声にならず、涙とともにそれを中断する場面に幾度も遭遇した。

 その情は、多くの社員に対しても同様だった。社員には大変厳しいトップだったというが、それでもなお「佐治さんがおられたからこそ、私のサントリー人生がある」という社員は少なくない。厳しい叱咤の一方で、社員ばかりかその家族をも気遣う優しさがあった。この情が、佐治さんと友人、社員とを結ぶ絆だったのだろう。幹部社員のほとんどが、佐治さんのもとでサントリー人生を全うしているのもその事実を充分に裏付ける。

 中国の古典『呻吟語』に、「大凡、人情と近からざるは、即ち行能卓越するも、道の賊なり。聖人の道は人情のみ」とある。また関西師友協会の豊田良平副会長はその言を説いて、「頭が良くても利己者と言われるよりは、情の人にならねばならない。人を生かすのは思いやりである。薄情な人には部下もついてこないし人も集まらない」と語る。(川人正臣編『仕事と人生』)
まさにこのことを体現したのが佐治さんの人生であった。

 もちろん佐治さんが、情のみの方であったわけではない。経営手法においては「極めて理性的であり、論理的であった」という。
もともと佐治さんは初めから経営者を目指した方ではなかった。創業者である鳥井信治郎翁が定めた寿屋(現サントリー)2代目社長は長男の鳥井吉太郎氏であり、佐治さんは学究を志し、旧制浪速高校理科から大阪帝国大学理学部化学科に入学している。当時の阪大理学部は錚々たる教授陣を擁し、「本当に勉強好きでなければ進学しない」コースであった。大学時代の研究風景を写した写真が残っているが、すっかり研究者のイメージである。

 だが長兄吉太郎氏は昭和15年、取締役副社長をもって逝去、佐治さんは急遽、学究への道を断念、経営の道に入る。理性的でかつ論理的な感性は、こうした人生の中で育まれたものだろう。「信義に裏付けられた情の人」をベースに、思考は「理性的で論理的」の構図はこうして形成されたのだろう。

 同社副社長の津田和明さんは言う。
 「取締役会でも、企画提案する役員に対して、"何でや?"の質問を必ず飛ばす。それがポイントを突いていて的確だった。まあ、3回は何でや? 何でや? と突っ込んでくる。そしていざ納得すると、"やってみなはれ"ということになる。こうして部下を育てていったのでしょうね。そのかわり任せた以上は、徹底的にそれを支援した。失敗した場合でも、それで責任をとらせることはなかったし、向こう傷は問わずという懐の大きさを持っていた」

 だから部下は安心して仕事に専念し、チャレンジもできたのだろう。かくいう津田さんが40歳を過ぎたばかりの時、突如、新設するロンドン支店長の辞令が出る。当時、英会話に自信のなかった津田さんは「他のことなら何でも従いますが、これだけはご勘弁を」と額を床に擦りつけて、辞令撤回を願い出たことがあった。

 ところが、「血相変えて何ごとや思ったら、なんやそんなことか。あっちでは子供でも英語で話しよるでぇ。まあ、とにかく行ってみなはれ」で一件落着。津田さんも意を決して行かざるを得なかったのだが、上司と部下の何とユーモアに富んだ心温まる会話であったことか。佐治さんは効果・効率を大事にし、会話や文章でも形容詞は嫌いだった、といわれるが、この2人の会話にもその一端が伺われる。

 その後、津田さんはロンドン支店長在任中の昭和52年、43歳の若さで取締役に抜擢され、その出世が社内外で話題になったが、そこにも人使いの妙を見る思いがする。「理性的で論理的、しかし友に接するには非論理的で情に殉ずる」佐治さんは、情と理の感性をしっかりバランス化し、しかも行動するに激しさを持つリーダーだったのだろう。

= つづく =

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