第十三回 「宗教心(下)」

画像  動機善なりや、私心なかりしか
               宗教心と経営観の融合

 前回「川の向こう岸(彼岸)に立ち、そこからこちら(此岸)で心を悩ます自分をみる」という金森茂一郎・近畿日本鉄道前会長のお話を紹介した。それを書きながら稲盛和夫・京セラ名誉会長の「動機善なりや、私心なかりしか」の言葉を思い起こしていた。

 昭和34年に京都セラミックを創業、ファインセラミック技術をベースに、今日の世界企業・京セラを築き上げたこの方のサクセスストーリーはあまりにも有名だ。あえて私がここに記すこともないだろう。

 その稲盛さんへのインタビューで耳にしたのがこの「動機善なりや、私心なかりしか」の言葉であった。
 稲盛さんは昭和59年に、現在のKDDIの前身となる第二電電(DDI)を設立し、情報通信産業にも進出されている。その経緯については著書も多く、つい最近では日本経済新聞の『私の履歴書』にも詳しく書いておられる。

 それは単なる事業欲からではなかった。長年、日本電信電話公社(NTT)が一社で独占してきたわが国の電話料金は、他国に比較してべらぼうに高かった。そのことを痛感してきた稲盛さんは、制度が改正されて、新規参入の条件が整ったのを機に、「日本の人たちに安い料金の長距離通話を提供してあげたい」と考え、この分野への進出を決断する。
その時の心境を本紙のインタビューで次のように語っておられる。
 「第二電電の事業を興すことが本当に正しいことかどうか、自分自身に厳しく問いかけました。最終決断をする6ヵ月ほどは毎晩寝る前に、“動機善なりや、私心なかりしか”と自分に問いかけました。そして高い料金で苦しんでいる人たちに、安い(長距離通話)料金を提供することで喜んでもらう、そこに社会的使命があるということを感じ、決断したのです」

 まさしく此岸で情報通信事業に進出しようとしている稲盛さんご自身のこころを、川に架かる橋を渡って、彼岸に立ったもう一人の稲盛さんのこころが「私心なかりしか」と厳しく見ている、そのような光景を私はイメージした。

 そして私は、これこそ宗教心と経営観の融合・一体化であり、金森さんがおっしゃる言葉の経営的実践と確信した。
 もちろんそれは、稲盛さんのこころの原点に宗教心があったればこそである。
 子供の頃、稲盛さんは胸を患い死をも覚悟したことがある。その時、近所の人から贈られた谷口雅春氏の『生命の実相』を読み、こころ開かれる。平成9年6月、稲盛さんは得度し、僧籍を得るが、その魂は、この一冊の書からほとばしり出たものであった。

 このようにも言われる。
 「我々人間には“魂”というものがあり、その私の魂がそういうことに関心を持ち、また求めていた」
 その宗教心に支えられてだろう、また次のようにも言われる。
 「経営というものは利潤を追求するものであり、お前がいうように利己を捨てて利他とか、他人を愛しなさいとか、世のため人のためなどきれいごとで事業ができるものか、と思われるのではないかと思います。しかし、私はそうではないと思いますし、それを自分で実行してきたつもりです」と。
 さらに「たとえ10人、20人の従業員を抱える中小企業の経営者であっても、従業員や企業を取り巻く社会の人達に喜んでもらえることをするのが事業経営の目的であり、そのリーダーである経営者の責任は大変重い。またそれだけに経営者は人格高潔、公正無私な人間性を持っていなければいけない」とも強調する。
 稲盛さんのバイブルとされる書は先に紹介した『生命の実相』の他に、安岡正篤氏の『運命と立命−陰隲録の研究』であり、宗教家・中村天風氏の諸著書と伺ったこともある。宗教心を持つことは、運命論をこころに抱くことではない。むしろ大きな力の下で、運命を自ら切り開く(立命)こころを養うことである。その実践を稲盛さんに見た。


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