第九回 「辞世」

      自ら「お別れのことば」
         〜 病床で口述、別れのBGMも演出 〜

 「辞世」という言葉がある。大人世代なら誰もが知っている言葉だが、若い世代にはすでに死語になっているのかも知れない。
 『広辞苑』によると「この世に別れを告げること。死ぬこと。また死にぎわに残す偈頌(げじゅ)・詩歌など」とある。

 ただ、大人世代なら誰でも知っているとは記したが、すでに実生活の中に辞世の習慣はない。『忠臣蔵』の名場面、浅野の殿様の切腹する時に残した歌だとか、吉田松陰が刑場に向かうに際して作った和歌を辞世として知っている、ただそれだけのことに過ぎない。

 『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」ではないが、古き歴史上の時代の士(さむらい・学徳ある人・男児などの意味がある)のたしなみ、あるいは作法であって、今の時代に生きるものとは誰も思ってはいない。
 私自身がそう思っていた。というより現在の私には、「死」というものが余りにも重すぎて、それと直面する勇気は全くない。そのような人間に、辞世などが作れるはずもない。いま時、それが普通であると考えていた。
 しかし、昨年12月26日にしめやかに執り行われた宇野收・元東洋紡績会長(元関西経済連合会会長)のお別れ会で、辞世の心がいまも有徳・学徳の士に受け継がれていることを初めて教えられたのだ。

 宇野さんの数枚の遺影にお別れをし、会場を後にするところで封筒に入った小冊子をいただいた。予想通り『宇野さんをしのぶ』と題された冊子だった。
 表紙裏に宇野さんが愛された『青春』の詩が紹介され、続いて遺影、経歴などがあり、生前に宇野さんと親しかった方々のお別れの言葉も載っていた。
 東洋紡績の後任社長である柴田稔会長、呉羽紡績時代の部下であった橋本龍太郎元首相、関西経済連合会の秋山喜久会長と続き、旧制三高時代の先輩である大島靖元大阪市長、作家の山崎豊子さん、京セラの稲盛和夫名誉会長、建築家の安藤忠雄さんと多彩な方々が一文を寄せていた。いかにも宇野さんらしい交友の広さと感心した。
 だが、最後のページに「お別れの言葉」があり、さらにその末尾に、「宇野收」とあるのを見て、一瞬目を疑い、それが間違いないことを確認して、またこんがらがった。「一体、どういうことだろう」と。

 よく読むと、それは紛れもない宇野さんご自身の「お別れのことば」であった。そして、その冒頭に
「83年と6ヵ月で皆さんとお別れすることになりました。ずいぶん長い間お世話になりまして、ありがとうございます。(中略)決して長生きとは言えませんが、ここで人生の区切りをつけさせていただく良い機会かとも存じます」
とあった。
 このページの最後に(この文章は、宇野さんが病床にて口述され、それを書き記したものです)と書かれてあった。鈍いと言われれば確かに鈍いのだが、数々のお別れの中で、ご本人の「お別れのことば」をいただいたのは、少なくとも私にとっては初めてのことであった。
紛れもなくそれは、宇野さんご自身の辞世の言葉であり、間もなく、胸に迫るものを感じた。

 およそ1千文字の文章だが、どのような容態の、どのような心の状態の時にそれを口述させたのか、と考えつつ今さらながら、宇野さんへの畏敬の念を新たにした。
 文が進み、『青春』の作者サミュエル・ウルマンの「自分の死を悼んで悲しい涙など見せないでほしい。彼は今日旅に出て、ずっと旅を続けていると思ってほしい」という言葉を紹介し、自らの思いを重ねる。
 さらに最後に、「心から離れない青春の思い出」である旧制高等学校時代の寮歌『紅萌ゆる』をお別れのBGMとさせていただきます、自らのお別れ会の演出までなさっている。いかにも宇野さんの一面が出ていて、1人微笑んだが、そのBGMに送られ、私もその場を辞していた。

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